喫水書

もはやその果てには限りなく茫漠たる水煙が立っているだけです。

あなたは見たでしょうか、蛙の肌をした馬が嘶いたその瞬間、周りの水面は泡立ち、共鳴するかのように大きな唸り声がこの世の形ある物をを切り裂くばかりに響き渡ったのを。現に私の友人は、隣で頭を抱えて蹲り、歯茎を剥き出しにした彼の口からは血の泡が溢れ出ていました。彼はその日に両の眼を失いました。あの場に残された私たちは、いずれも何かをあの場で失ったのです。友人は眼を失いましたが、まだ生き永らえています。あの夜の悪夢を二度と目にすることないよう、彼の眼はおのずと閉じたのだ――訳知り顔の老人が口にしたのを今でも忘れません。はっきりとここで言っておきたいと思います。あれは代償なのです。現に彼は神に仕えることをやめました。他の誰もが気付かなかった呪縛から離れ、いち早く生の感覚を己の身に感じることができたのです。何かによって欠けたものを補償されることに慣れ切っていた人間にとって、己の身を感じるということはまるで幻想であるかのように思われていました。人々の多くは神にその役を負わせ、神によってすべてを価値づけていたのです。一個の総体…そう、教会は一個の総体として、町を、国を覆い尽くし、今や誰も敵せぬごとき勢いで発展を続けていました。唯一にして崇高なる神、教会がそう呼んでいるものはまさに教会それ自体に過ぎないのです。権威の根拠を神に押し付け、彼らはしかし自身さえも欺いてさらに狂信の度合いを深めていきました。もはやあれが形をなさなくなることなど自明であったのです。なぜ貴方達はあれの力を過信するのですか?今でもあれが、本当に厳然たる姿を維持しているとでも思っているのですか?異教徒である貴方達ですらあれの力に目眩まされるということはつまり、貴方達もそうだ、ということなのです。自分の足で歩むことをやめた者には、反抗という児戯しか選択肢が残されていないということです。嘶いた馬は、貴方の元に来ることは決してありません。あれが最初で最後の現前であり、誕生であり死であります。象徴が世を表しているのではなく、世は象徴の胎内に孕みこまれたのです。異教に傅く貴方達が再臨を望んでいることを私は知っています。しかし、貴方達はもはや己を「異教」としたときに終わったのです。真の名はオハト(ou'hotae)、“産す者”であり“果たす者”でありました。それを原理主義の汚名とし、自らはイナハタ(ou'ineahth)、“真なる徒”としたことは、まさに自らの首を木挽くことと同義であります。地は湧きました。水煙に満ちた望みは貴方達の望むとおり果たされはしますが、同じく滅びの道は等しく齎されます。私も身を裂かれますが、唯一残されるという二本の萎え脚は、次の世に持ち越されるということです。逃げる脚を持たないのは貴方達も同じことです。ただ待ちましょう。苦が到ります。

この日、彼は身を狗の餌として細かに分かたれたとある。使徒の源像と言えよう。(出典:イスタファ=ヤド『母なる地』)