安穏の日

安定、安寧、安泰、安穏、そのような表現がふさわしくもなるような秋の日だった。
気温は程よく、肌寒さを少し感じる。昼間は日差しが暖かく、かといって汗ばむほどでもない。春とは違う、夏の噎せ返るような、強々としたものに翳りが生まれる、ほんのわずかな時間の静けさ。
それでも、不調をきたす者は必ずいる。私でさえ、颯爽と一日を始めたかのように思えたはずが、時間を追うにつれて自らの至らなさに苛立つようになる。思考がどん詰まるのだ。苛立ちが、人の苛立ちにも見えて、実際に人々は苛立っているのかもしれないが、行き場を失う。
初めの1時間ほどで、泣き出す者がいた。カウンターに突っ伏しておいおいと、身も世もなく。「どうしでもだめですか」と言い出した。「迷惑はかけません」「お酒を飲んでいるわけではないんです」「ここで脱ぎます」云々。また別の者もやってくるその瞬間から泣いている。
何があったのか分からないが、この世はそんなに悲しみを誘うものなのか。なぜ涙を流すか。要らぬ者まで出張っては事の始末をつけようとし、不格好にも思えるが今後こうやって綻びは広がっていくのだろうとさえ思われる。救いようのなさを感じる。たとえ私が常に平静を保っていたとしても、恐らくそれは何の抑止力にもならないだろう。綻ぶものはいずれ崩れ去る。自らを振り返らぬ者が多ければ、その分だけ無法状態にもなることだろう。
ホッブズの闘争状態なんて、そんないいもんじゃない。こいつら勝手に拡散していくだけだ。自らの居場所を求めたり、より自由に動き回ったり、好きなことができるようにするために勝手なことをやる。私だってそうだ。人のことは言えた義理ではないが、いずれ形を失うものの、ただこの束の間を保つために体裁を取り繕ったところで、何も良い方に変わることはないのだろう。
進歩主義に異を唱えているわけではないのだ。そうやっていずれは身を持ち崩していくのが分かっていて、私はやはり、できるだけ自らの襟を正して、まるで聖人君子のような面をしてこの場が腐れていくのをゆっくりと眺めているのが一番いいなあ、とそう思っているだけなのだ。