深展――自涜、禁欲

いつのまにか、常に、質的な「深」展を願うようになっていた。
それは一つに、もはや目に見えることで周囲と競い合えなくなってきたから。例えば記憶力において。または分析力において、運動能力において。こういったことが私をどれほど苦しめてきたか。私はこれらを秀でて持たないことを気にしていた。自分自身が十分に持たない「不具」の者だと思ってきた。なぜならこれは目に見えるもの、評価可能なものであり、周囲と否応なく比較させられるものであったからだ。比較されたところで何になるというのか。比べられた結果、劣っていると見做されたときは苦しむ。しかし勝っていると見做されたときも苦しむのだ。たったこれだけのことで有頂天になろうとしている、そんな自分は他のことをなおざりにして何を偉そうにしているのか、と。いずれにしても実りは少ない。むなしく、苦しい。


またさらに、今挙げたような能力へのこだわりはいまだ消えて無くなっていないのだ。あきらめもできず、他に託すこともできない。「託する」という大義名分が、多くの場合においていかに愚劣な欲望に無自覚に繋がっていくかを考えるだけで、私はこれを選ぶことは到底できない。ではそれを比較するのではない方法で玩味することはできないのか――すなわちこの答えは「自涜」だ。自慰行為だ。ただ、自らの快楽に追い立てられるのも一興かもしれない。だが他のやり方もある。倒錯した方法だ。すなわち、正当ではない方法で快楽を求めることである。曰く、手首を浅く掻き切ること、曰く、衣服の下に肉体を強く縛った縄を隠すこと、曰く、毎朝の糞食を欠かさぬこと。ここに挙げたものはいずれも身体的なものばかりだ。なぜ倒錯した方法を選ぶか。それは、まずもって“自らを愉しむ”ということにおいて、「わたし」という視点が欠かせないからである。しかもそれは不法、逸脱であることによって、自らに由縁を持った形を得る。もちろん、これは公に「認可」されてもならない。そして一定の手続きを経ないと快楽を得られないようにする。これによって快楽は意図的な水路を得る。快楽は自らのものであり、「自らの欲望に基づいて」「自らが選択する」という屈折した感覚を、獲得することができるだろう。


またこれと似た方法として、「禁欲」も挙げられるだろう。ここでも拡大解釈を元手に展開する。これは自らの望むことを絶つことである。キリスト教においても禁欲は手段の一つとして選ばれてきた。神へ近づく方法として。根本で自らの肉体と精神に囚われている人間が、これらを根拠にしないのである。自らを楽しませることを徹底的に排除するのである。ここにこそ、自らを玩味する方法の一つがある。そのうちで一つ例を挙げよう。「善」とされることを強いて行うことだ。禁欲者であるゆえに、自らは「善」の行使者である以前に、「善」の隷属者であらねばならない。「善きこと」をする者と「善き者」は同義ではないのだ。当然、行うのは「善」でなくとも差支えなかろう。「悪」であろうと、「常識」であろうと、「渾沌」であろうと、「無意味」であろうと問題はない。問題なのは、「それ」を行う者が自らを「それ」と思いこんではならないまま「それ」を自らに強いられる、ということだ。ここに居るのは、いわば、益体もないことを思い描いている、ただの肉と骨である。我々は何者でもない。ただ他の価値観に自らを委ね、それを愉しもうとすること。私の所有ではないものは永遠に私の所有とはならない。これを前提にし、ただ愉しむための方法と意味を、手を変え品を変えて掴みだそうとすることこそ、禁欲のあり方ではないだろうか。