胸のむかつき、苛立ち、煮ても焼いても捨てても厄介な代物が、どこから現れたかもどこへ行くかも分らずに漂っている。
それをどうしようというわけではないのだ。それを気付いているのかいないのか、私はその感情そのものなのか、このもてあますような奥底に隠してきたものが色を帯びて現れてくることへの恐れでもあり、また自分が目を逸らしてきたことへ改めて苛立ちを以て迎えることの違和感。これではないのだがこれに違いない。言述はおろか知覚も認識さえもできない、しかしそこに確実に身を潜めて私を窺っている「それ」。それがただ、場所も時も無視していわれなき苛みを私にかけ続けているということ。しかし私は被害者でも加害者でもない。自分が蒔いた種なのだということも知っているのではある。

「殺手」。「ダンデライオン」や「イリーガル」を近年手掛けた木村直巳の作品である。内藤の母がつぶやいた言葉が私をなぜかかき乱す。「いったいどこで間違ってしまったのか…」これだ。王道楽土を目指して満洲へ向かい、馬族になった彼の両親。息子である彼にはその夢の代名詞である満洲が生まれの場所である。彼は日本にも中国にも帰属しようのない浮薄がよりどころであり、しかしそれでも現代まで生き続けてきたという傷みがある。それを語るとはどういうことだろうか。我が事を、母の向かう先のない言葉が深く彩るようである。「どこで、間違ってしまったのか」。どこで、ではない。その生こそが、誤りなのかもしれない。
「まっとうな道って、何?」先日有名企業に勤める友人が返した言葉である。まっとう、という言葉すら通用しないのであれば、誤りという言葉もないだろう。そう思うかもしれない。要は、己の赴くままにやればいい、ということだ。しかし、それを自信をもって言えるものがどれだけいるだろうか。私は、おそらくこの先10年、20年同じことを、煙のように胸の裡に漂わせながらやりつづけているのだろう。間違い、己の赴くままに向かうことができなかったこと。そして、誰の期待も逸らし続けてきたこと。将来などという言葉は口にしたくもない。夢、などという甘い言葉は忘れてしまいたい。己の生を刻むことさえも呪わしい。しかし、どうしようもなく、私は私の欲望に振り回されながら生に振り回され、生を振り回す。口を噤むしかない。