『有罪者』抜き書き

亀裂した、閃光にみたされた深みの底の底へ投げこまれて、叫ばんばかりに愛すること――深淵の底に在るものを知ることは、もはや問題ではないのだ。私はまた燃えたったまま書いている。もっと先へ行こうなどとはするまい。何も付け加えることはない。空の大火災を、突如としてそこに、鋭く、やさしく、単純明快にあったものを、子供の死苦のように許しがたいものを、私には描写することはできない。こうしてことばを書きつらねながら、私は恐怖している。私というこの空しい沈黙を恐怖している。かくも強烈な光に耐え、知性のむなしさをまったく感じとらぬためには、強大な頭脳が必要だ。そこに在るものを知性のカテゴリーに閉じ込めることは、ひとつの真理があからさまな姿を見せる時、その時心が萎えずにすむためには、強大な頭脳が必要だ。光の中でまで雄々しくあるためには、狂気じみた無知が必要とされる。すなわち、それは、火に焼きこがされ、歓喜の叫びをあげ、未知の、認識不能のひとつの現存を理由としつつ、死を待ち望むこと、おのれ自身が愛と化すること、盲目の光と化すること、太陽の、あの完璧な理解不能にまで到達することなのだ。(p39,Ⅱ「満たされた欲望」)

今、私は――栄光につつまれながら――ある叙述可能な運動によって、何ものも押しとどめようとせず、何ものにも押しとどめることのできないほど烈しい運動によって、足をすくわれている。これこそが起ることなのだ。なんらかの原理からして正当化したり、拒んだりすることのできない、あの起ることなのだ。それはひとつの位置ではなくて、おのれの限界のうちに、それぞれの作用を維持している、一個の運動なのだ。私の構想は引き裂かれた神人同形同性論だ。私は、在るものを、隷従の限界を避けることはできないが、また限界に甘んずることもできない、この不可能性へといざなって行きたいのである。無知は――熱愛される恍惚の無知は、この時、希望なき智慧の表現となる。思想は、極限にまで展開されると、おのれの「死への投入」を渇望する。一躍して、供犠の圏内にまっさかさまに突入することを希うようになる。そして、ひとつの情動が、すすり泣きの引き裂かれた瞬間まで増大してゆくようにして、思想の充溢は、思想をたたきのめす風の吹き荒れる地帯へ、最終的な矛盾が猛威をふるうような地帯へと、その思想をいざなってゆく。(p49,Ⅲ 天使)

着衣につつまれたひとりの女のからだに――人間の次元では――具体化される完了態の幻影。部分的にさえ、着衣を剥がれれば、たちまち女の動物性はあらわなものとなり、その姿を見つことは、私の中に、私自身の未完了態をあからさまにする。……もろもろの存在は、完全なものと見えるかぎりにおいて、相変わらずの孤立状態にあり、おのれ自身に身をかがめたままである。だが、未完了の傷口がその諸存在を開いてやるのだ。未完了、動物的裸体、傷口などと名づけうるものによって、各種のばらばらな存在はたがいに交感しあい、一方から他方への交感のさなかで身を滅ぼしつつ、初めて生命を得るのである。(p52,Ⅲ 天使)

現代社会の均質な情報の氾濫においては、ただ同質な乾燥した、「意味を持たない」言葉が積載されてゆくだけである。しかし、“強大な頭脳”と呼ばれるなかで思想の充溢は、少なくとも自分自身が咀嚼し、血肉としたものが溢れだすのだろうか。熱を帯び、快楽と苦痛のこき混ざった動物的な反応。もはやここにはそれまで“知性”と呼んでいたものはない。狂騒のなか、言葉は力を失う。体験の「事後性」のゆえんか。
また、バタイユは未完了・動物的裸体・傷口という言葉でなまなましさ、動的側面を示す。この感覚を押し拡げてゆけば、己の裡に潜む言葉にならぬ「それ」だけではなく、私に感覚として受けられる私自身はすべて言葉にすること――把握すること――の本質的な不可能が見えてはこないか。言葉というものがいかに無力であるか。