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テーマを絞る…言葉、、、形にならぬもの。。。不確かなもの。
だから何だと言うのか。体系立ててことを理解する有用さ。輻輳させて響く音。ワンテーマ、そして自分から突き放して現れる複数の姿。これを三人称の効能と呼ぶか。自らとは何か、、、語り得ぬものとは何か...私は何を求めているのか…おそらく絶対の姿だろう…形あるものではなく、有形無形にかかわらず、体を突き抜けるほどのもの。貫くような体験。こともなしに姿を現し、気付くよりも前に姿を消している。。。「あなた」とは誰か。私とは?意識とは何か?観ているものへの絶対的な信仰、簡単に言うことの叶わないもの。そう、まず光である。光とは遠くに在りて輝くものであり、身近なものを私は光と呼ばない。信仰とは自ら簡単に姿を現すものに向けられはしない。私は選ぶ。あちらから悠然と父の名を騙るような者でもなく、それを出所の知れる場所から声を挙げるものでもない。私は選ぶ。どこからともなく存在を知らしめ、実体を現さず、私の生命を一挙に掴みこんで離さぬもの。畏れしか伴わず、行く先は自らの道ではない。それは踊り狂わされるようなもの。
もしかすると、人に仕えるということ。あるいは無私。それらすべて、自らを抛擲することに深淵があろう。最も愛すべき自らを捨て、痛むべき我が身をも鞭打たず、ただ棄てるということ。
ただ語ろう。ただ往こう。残された時間は少なく、この私も朽ちてゆく。すべてを棄ててただ一つに捧げよう。それが愚かな迷妄だったとしても、現れるものが狂おしい、絶する地獄の炎であれば、もう私は厭わない。尊厳がなんだというのか。地獄だろうと、天国だろうとなんだっていい。永遠に踊り狂わされる場所へ、私は向かおう。それは光かもしれない。