本屋に寄り道

一乗寺の恵文堂へ1年ぶりに足を運ぶ。アガンベンの『言葉と死』をタイトル買いして以来か(読んでないし)。
ここでの感じを書き記しておこう。


某教授と元教え子の連れがこの一年以内に行ったことを2度聞いた。最近では教授は西炯子の『娚の一生』が面白かったと言っていたそうで、店内にも置いてあったという。あの店にはマイナー向けというかサブカル好みというか、メジャーというには傍流の本が多く取り揃えられているのが大変に好みだった。その教授の話を聞いて、なにおう、1年以上前に読んどるわ。『姉の結婚』も読んでいるというが、ま、ヴィレッジヴァンガードよりも恵文堂よりも先に自分の好みの本くらい買い込んでおかねばいかんだろとか、「で、この本棚に置いてあったのって他に何かあった?」となぜか張り合いだす始末。はいはいお疲れ様です。


この日は散髪ついでにこの恵文堂へ寄ってみたわけだが、結局食指が伸びるほどの本にはめぐり逢えなかったのだった。目を引くものはあったことはあったのだが。四方田犬彦だとか東浩紀とかよく見る名前に、スティーブ・ジョブズが好んだと言う『弓と禅』とか、松浦寿輝の短編集とか。そして何より一列ずらっと震災関連の本、いかにして生き抜くか系の本。裏側には、おっ『正義隊』4巻じゃないか。早川義彦もなんか書いてる。バルガス・リョサとか10の短編がなんとか。はあ。奥の方に行けば去年一角をなしていたマルキ・ド・サドも消え、海外文学がいくつか。トマス・ピンチョンボルヘスもあるし、ゴールディングの『蠅の王』もあった。レオ・レオニの『平行植物』ハードカバーの新装版も。つまるところマンガ以外は自分の興味を引いたもの以外覚えていないわけなんだが。
そしてもう一度新刊の揃う窓側の思想系のあたりに行って、なにかピンとくるかと思ったのだけど。しゃあないね。こんんなときもあるもんだ。


・・・んん、なんというか、違和感があるのだ。本にではなく、この本屋にでもなく、いまここでほっつき歩いている自分に。目新しいものを手にとって買ってみてはよく分からないまま本棚に並べていることが多い自分に。いま、ここで、たとえ手元にある『完全言語の探求』(ウンベルト・エーコ)を買ったとしても、それを読んでみたとしても、そこに書いてあることを一冊全体として分からなければ、思想史の系脈において理解することがなければどーしようもないのだ。いくら抓み読んだところで、自慰行為にさえなりはしない。それを分かっているはずなのに、それでもこうやって本屋に行っては渉猟するというのはどんなもんなんだろうか。
こういうとき、胃袋あたりにイリイリと感じるものがある。痛みではなく、焦りが蠅の速さで蛍のように飛び交っているようだ。息が浅くなる。深くため息をつけばこの感覚は薄らぎはするが、肩のあたりに息の浅さが緊張の形をとって残っているのが分かる。おい、自分はここで何をしている?炯炯と目を光らせて本を漁っているつもりで、自分の虚栄を満たそうとしているだけではないのか?何かを理解しようとするのではなく、ただ、理解しているというポーズを取ることで周囲からの優越を図ろうとしているだけはないのか?しかしそのポーズすらもまともに取れないのが分かっているもんだから、しこたま断片の知識を仕入れようとしているのだろう?
何かを理解しようとするというよりも、単なる趣味で本を買うのが好きだとか読むのが好きだというのであれば、それ以上文句をつけることもあるまい。ただ、この自分はそれだけで済まそうとはあまり思っていないようで、眼の前にある本達に目が眩み、焦っている。自分は何も分かっていない、本を読まねば、と。ここで『完全言語の探究』の緒言が理解できたといって、その先の文章を一読で消化できるとはだれも保証しないだろうに、はやくこれを買って読まねばなんて思っている。
こんな浅はかさを、よくこの店では抱くのだ。私にとっては、此処は憧れや焦りに似たものを甘く感じ取らせてくれる場所だったのだ。


あらためてこの感じを自覚してしまったものだから、もう何も買わずに帰ることにした。帰って本棚の本を読もう。
自分の本棚にある本だけで世界を理解したつもりになるのは危険だが、その本さえも読まずに新しいものばかり求めて齧ってばかりいるのはもっとダメだろう。かつて大学院で、中井久夫神田橋條治木田元など錚々たるメンツのハードカバーを机に山と積み上げて読んでいるふりばかりしていた奴がいた。「本は少なく読め」と言われる。まずは自分の手元にあるものから選んでしっかり読まねば、分かりたいことも分からないまま餓鬼のように学問畑の外側をずーっと歩き続けることになるだろうよ。