小さな幸福のようなもの

何か小さな幸福のようなものを書きたい、と彼は言った。
自分は周りの人に影響されやすいところがある。人との共通理念を作るにはどうすればいいのか?人と人が分かりあうということに価値はないのか?と。
共通理念。人と人が分かりあえるとは、たとえば二人してヤクをキメてドロドロになるような体験も一つの例に挙げられるだろう。あるいは一定の決めごとのなかでお互いにルールに準じているという相互の認識。また、かつてドイツでヒトラーによってもたらされた狂熱。多様な見方もあるが、まずそれを理念と呼ばないのならば、理解、分かり合うこととしよう。人と人とが分かりあう、ということには多くの水準が考えられるだろう。
個人的には共通理解というものはありえないと思っている。明文化されたものであればなおのこと、言葉にならないものを担う類の小説ならば、そこに人々に同一に伝えられるものはなかろう。そんなことを意図して作られるのは教養小説という前時代的なものくらいだろう。彼はセンター試験を例える。山田詠美は、センター試験に無断で自身の作品を使われたことでもめたそうだ。無断で用いられたことよりも、彼女は選択肢に問題の正答がないことを指摘したという。かつて私も似た話を聞いた。ある小説家がセンター試験で自分の作品を解いたところ、半分も正答しなかったと。あるいは建築家のルイス・カーンパリ大学で自らの建築物を学生に見せ、イメージされる音楽を即興で演奏させて、もっぱらその音楽の質疑応答で講義を費やした、という例を彼は挙げた。
完全な相互理解は幻想である。そこに底流するのは孤独感ゆえの渇望か、自我肥大した先の支配欲か。いずれにせよ、自らが何故にそう思っているかを、常に理解「しようとする」ことが必要だろう。教養小説などではなく、たとえば埴谷雄高が山口泉の「自分のために、自分が読みたいものを書きたい」という言葉を「それはとてもよいことです」と評したように、自分のために書くことしか選び得ないのではないだろうか。それは楽しいから、というようなナイーブな感覚でもなく、「やりがい」「生きがい」「自分らしさ」などという糞反吐がでるような薄っぺらい動機でもなく、たとえば車谷長吉が「物書きで生を鬻」ぎ、心臓に差し込みが来てもなお私小説を書き続けねばならなかったように、やむにやまれぬ衝迫こそが書くことにつながれば、それはそれで十分なのではないだろうか。