原田さん

赤目四十八瀧心中未遂』(車谷長吉)の抜書き。

私はアマへ来てからはじめて、阪急電車に乗って京都へ行った。六月半ばの雨の降る日だった。れいの小山花ノ木町の知人の家を訪ねるためだった。この原田巳記という人は、私が京都で料理屋の下働きをしていた時分に知り合うた四十過ぎの男であるが、小児科の開業医をするかたわら、フッサールメルロ=ポンティの哲学を勉強し、時たま新聞雑誌に夢のもつれのような文明批評を書いたりしていた。住所不定の私には健康保険証がないので、通常の病院へは行けない。行けば、あれこれと面倒なことを言われるのである。だから私は横着を起こして、この人にただで、一応は傷口を診てもらっておこうと考えたのである。
京都では、私はいつも鴨川の橋の上から薄墨色の北山の山の色を眺める。そうするとすさんだ気持が慰められるのだ。それが京都で働いていた時からの心のゆくたてだった。が、その日は生憎雨に降り籠められていて、北山は見えなかった。けれども久しぶりに鴨川の流れを見て幾分かは慰められた。四ヶ月前の二月の朝、原田さんの家から出て来ると、この川は一面に凍っていた。あれからわずか半年足らずのことなのに、何と多くの人の生血を吸うた言葉が、この身に沁みたことだろう。私はありがたいと思うた。
原田さんは私の傷口を診察して、「少し化膿しかかっとうけど、心配はいらん。」と言うて、化膿止めの薬を出してくれた。そして「どうや、尼ヶ崎へ行ってれこは出来たか。もしよかったら今晩また泊まって行け。わしはあんたの相手はせんけどな。」と言うてくれた。この人の口癖は「仕事は行や。」という言葉だった。患者の母親に「子ども育てんのも行やで。」ともよく言うのだった。私に泊まって行けと言うてくれるのも、恐らく行で言うてくれているのだった。この人の日常性の藪の中から出て来た言葉なのだろう。そこに、私はこの人の味わい深い面白みを感じていた。だから私にとってはこの人のフッサールメルロ=ポンティはどうでもいいことだった。原田さんの中に言葉が発生するところは、そんなところにないからだ。ところがこの人はフッサールメルロ=ポンティを後生大事に拝んで生きている。私には分からないことだった。私は普段の原田さんのおかしみのある言葉に接して、数ヶ月ぶりに外界の空気を吸うたような解放感を味わった。原田さんの言葉のやさしさは、セイ子ねえさんやアヤちゃんなどの息詰まるようなやさしさとは、やはり異質だった。

この小説を読んで、特に異質な印象のある部分である。何度も繰り返して読んでいて、ここだけはなぜか妙に鮮明に感じられる。現象学の大家を「後生大事に拝んで生きている」と言われ、「夢のもつれのような文明批評」を書いていると言われる彼を、主人公は必ずしも悪く思ってはいない。なぜ、行と言うのか。なぜ、夢のもつれを書いたり、現象学者を拝んでいるのか。彼の理屈のなかでは、おそらくつながっているのだろう。拝むと言うほど信仰に近いのかは、分からない。すさびで学問書を読み、雑文を書くということであるのなら、おかしみには到りえないだろう。原田という男にとっては、これらは、抜き差しならぬ心のゆくたてではないのか。
それに見事頭を傾げる主人公は酷薄だとも思う。しかし、それこそ行にもなりえぬ宿業のたぐいとして、文を書き本を読むしかないのではないか。あるいは、これらも原田氏の言う「行」なのかもしれない。
詳しく立ち入るのはやめておこう。これ以上記せば言葉が上滑りする。
ただ、私には原田と言う男がどうしても迫真に思えてしょうがない。