外へ!

外へ、外へ、自分の知らないことをより多く取り入れていくことがまず大切であると思っていた。経験豊富のほうがいい、と誰が私に教えてくれたのだったか。確かにボキャブラリーも笑ってしまうほどの自分が何を表現できるかと考えて、まずその蓄えの少なさを何とかしなければいかんと思い立ったのだ。ただひたすら、経験せよ。渉猟せよ。だからと言って、速読がかつてもてはやされた時期に、その一方で速読の空しさを呻いた人々は少なくなかったそうだ。そしてしばらくして、スロー・リーディング、遅読だと作家や学者がぼつりぼつりと言い出す。声を挙げて金が儲かるのなら本も書くだろう。しかし、速読の空しさなど、なぜ気付かなかったのだろうか?いや、なにも速読それ自体が不必要だとは言わない。私だって読みたい本が山ほどあるのだから、早く読めればいいと思っている。そして、もう気持ばかり焦って本屋に足を運び、図書館をうろつき、暇さえあればアマゾンにアクセスするわけだがそれは置いておいて。単なる情報として仕込むだけならば、速読でもいいだろう。――もちろん速読は大量の情報蓄積のためだけに推奨されたのではないけれど――しかし、例えばだ、あれほど読みふけりたかった小説の世界に耽溺できるどころか、「読む」という作業に追われて結局自分には何も残らなかった、と嘆いた人の文章を読んで、ああ、さもありなん、そしてなぜ気付かん、と思ったのだった。
願わくば、読んだ書物が全て私の血肉となることを。濁流のように私をかっ攫い、混乱の怒涛をもたらしめんことを……


そんな世迷言を呟いたところで、日々送ることが大事で、それを疎かにして何が読書だ、という目をときどき感じる。どうすりゃいいのさ。どうもない、まず生きるってことを大事にしろ、と、ただそれだけなのだ。そこに到り、私は立ち止まる。昔から言われてきた男と女の違いとやらを思い出す。男は理想を追って、女は現実に根付く。今の私には、これ以上返す言葉も思いあたらない。日々は新たに発光するだけだ。そこに理念も理想もあるまい。