禁煙状況

昨晩。まるで精神活動を抑止するような働きをしていた煙草も、もはや選択肢ではない。四散する思考やイメージが感情さえも増幅させ、行き場の定まらなさのためにかえって行き場のなさを実感させられ、どうしようもできずにのたうちまわるしかなかった。言葉は空疎になり、その軽さゆえか普段よりも多弁となる。検討すべきものがその根幹の場所を見失い、ただ問題が今此処にあるということを私に突き付け、焦慮へと追い込む。何をしているのか、どうであったのか、これの問題点は何処にあるのか、そういった諸々の事柄を捨てて、私のもとには「どうすればいいのか」という狼狽の思いだけが残る。いわば抑鬱から焦慮へ。いわばメランコリーからディスチミアへ。*1


今日はその続きと言えるか。四散し、思考は行き場を広げる。体調はすこぶるよい。目下の問題をこそ自覚して現実的な観点とともに更に下の水準での観点を並行して検討できさえすればよいのだ。それはある程度成功したはずだ。約二、三割といったところか。首を吊った自分の姿に囚われることもなく、よりシンプルで早い行動を求めることもできていただろうか。
いま考えれば、ここは個人的な事柄に干渉されることなく、感情的なことさえも主とする必要のない場所となりうる所なのだ。それは救われる、と痛感する。たとえここが実際にそうでなかったとしても、泥臭い関わりを前提として求めるような愚鈍さは、あまり感じさせない所である。感謝すべきか。あとは、自らをよりコントロールしうる状況を作り出すこと。

*1:誤解を招くような表記ではある。抑鬱と焦慮・焦燥は対概念ではないし、それがメランコリーとディスチミアに各々対応するわけでもない。もちろんこの鬱病に付く二つの名も、対概念というものでも状態を表すものでもない。