禁煙

宣言通り煙草をやめた。体調はすこぶる良い。しかし精神的には解放感溢れる朝を迎えるというわけではなかった。緊張感が足りない。今まで気を払っていなかった、思いだすだけでも気分の悪くなるような体験、感覚。私が目をそらし続けていたのはどこか。自分で分かっている、と感じられる以外の場へ向かうような注意。
毎日の朝をこうして迎えていた。ゆえにこそ、朝から緊張感のある、現実に対して否が応でも向き合おうとする態度を保てていたはずだった。しかし、これまで用いていた煙草がなく、息も吸いやすい。いろいろな所に向かいそうになるものを煙草によって絞っていたはずだった。不自由な呼吸、半ば強制的な軽い酩酊状態、微かにうずきはじめる片頭痛。これを元手に、根拠に、行動と思考を定めていくことに少なからず成功していたはずだった。
思考はあらぬ方向へ四散し、それを埋め合わせようとして否定的な、気分の悪くなるようなイメージをたたき込む。そのために、統制の利かなくなった頭は恐怖と苛立ちを抱えて収めることもできずにいたのだった。私が私であることをやめてしまうのではないか、という不安。ここで大声を上げ、暴れ出してしまうのではないか、という不安。妄想が眼前にひろがり、突然にも昏倒してしまうのではないか、という不安。では、ここに居るのはいったい、何なのか??
しかも、今日はひどいことに私の旧知が突然に現れたのだった。知人がいることで競り上がる高揚感を目元に宿してこちらを見る。見られた方はたまったものではない。ぎょっ、とする。なぜ、あなたがここにいるのか。また、私を混乱させようとするのか。放っておいてほしい。ただ、昔と同じように期待と緊張のような血液が、体を波打っているのはわかる。もう、自分を自分だけで保っているのは辛くて仕方がない。旧知の人は私に話しかけようとする。お久しぶりです、ああほんとうに放っておいてほしい。あなたのその無遠慮なだけの『社会性』とやらもここでは使わないでほしい。あまつさえ私に累を及ぼさないでくれ。
もちろん、人のせいにすれば自分自身の苦しさもいくらかは軽減されるというもの、しかしその人に罪をあげつらうとしても、返ってくるものがそれ以上のものだと思うと、もう私が自分で負うしかなかった。目が回る。話しかけないでくれ、せめて大人しくしていてくれ。私を無視してくれ。その厚ぼったい化粧で私を見ないでくれ。最近はこのような生き物を、メンヘラクソビッチともいうらしい。勘弁してくれ。ああもう。くるしい。少なくとも救われたのは、この人の性質を他の方も素早くも見て取っていたということだ。それだけは、救いだった。


場所を変えて平然とやれているつもりだったが、自分の行動が一貫していないこと、予想しうる、解決しうる問題を予想していなかったことでいくらかのミスはする。それはいつものことではあったが、ああ、もう息をしていることすらも辛い。形を喪って、ここから・・・・・・・・・・・・。ナマの、苦しみが訪れる。