映画4本

これと決め、以後の行動を自らの務めと自認し、規定する。なかなかできない。それはそうでしょうね。もしかしたらもっと似つかわしい選択肢があったかもしれないのだから。簡単に決まるものではない、なんて最近やっと身に沁みて分かってきたのに、全然腹が据わっていないでやんの。一応、人間の浅知恵で論理的に捏ね繰り回していたら、何か見つかるかもしれない。そう、日常生活の意識的な部分なんて8割方が筋道立てて一応の答えを出すことができるようなのだ。そしてそんなものに時間をかけるほど無駄なことはない。残り2割の分かりもしないところが、より重要で肝要だと思っている。私がきちりと物事を済ませようとするのは、それが目的だからじゃない。あとからやってくる訳の分らぬものにできる限り余力を割けるようにしておきたいからだ。

とか、

これを日記と言い続けるのも不本意ではあるのだけど、実際私が見たもの体験したものはひとしなみに私の体験世界に連綿と繋ぎこまれているものなのである。これを日記と言わずして何と言うのか…そう自らに反論させ、書くものと言えば客観的な判断などどこを探してもあるはずもない、そうとしか言えないようなもの。誰にも、これを客観的な描写だと言わせるつもりはない。
こういう前置きをしないと書き始められない。

とか。
まあそれは置いとき。そうしないといつまでたっても本題に入れやしない。


3日前に見てきたのは『ザ・ライト―あるエクソシストの真実―』と『八日目の蝉』だった。
昨日観たのは、『ザ・ファイター』(@シネプレックス枚方)、『ブラック・スワン』。
今日は『ビー・デビル』。


『ザ・ライト』
エクソシストって悪魔を退治するんでしょっていうか何やってんのかよくわかんない、かつてMike Oldfieldの'Tubular Bells'で有名な『エクソシスト』を筆頭に(していいのかな)、『エミリー・ローズ』での悪魔憑きを司法サイドで扱う作品もある。悪魔の存在が云々というのなら『コンスタンティン』や『パラノーマル・アクティビティ』だって例に挙げられるだろう。
本編でも言っていたか覚えが悪いが、「いるいないという議論をしている以上、それはいるのだ。神は信じるのに悪魔を信じないというのもおかしな話だし、知解不可能なものの存在証明などできはしない。現にここで起きていることは医学上でも説明できない。それならば、悪魔がいることを認めてもよいのではないか?」というようなものとして私は理解した。
確かにアンソニー・ホプキンスの悪魔憑き状態はなかなかにキレてた。しかしこれは劇しい刺激を得る映画というよりも、エクソシストの存在を公に広めようとしたプロパガンダ的な性格をもったものではないかとも思っている。最後に主人公のマイケル・コヴァックは悪魔の存在を認め、そして神への信仰を得たことが悪魔祓いの決定打になったではないか。
信仰の問題は難しい。何かを信じるとか以前に、自分自身の認識構造そのものに問いを突き付けられるような事柄だろうからだ。


『八日目の蝉』
観ているだけで息苦しくなるほどの切迫感。彼らは普通持っているものとされているものを持っていない。父母と子供、夫と妻、友人、恋愛、そのどれもが当たり前に受け入れられなくなっている。自分自身のせいではなく、自分ではどうしようもできないところで人と人とのつながりを引き裂かれてしまっている。戸惑い、疑い、怒り、悲しみ。本来人とは当たり前のことなど、ないのだ、と痛感し、この世に望みがないことに涙してしまう。これほど苦しいことがあろうか。頼ることができないこと、そして何かに縋り付きたくなるほどの苦しい情動にかられること。
当たり前のことなどない。信じるものは、自分で見つけるだけだ、というシンプルなことが、連綿と続くカオル/エリナのエピソードにしみこませてある。
「私、なんでか分かんないけど、もうこの子のことが好きだ」。どうしようもなく泣ける。



そして昨日の映画。どちらもシンプルな題材を丁寧に、克明に掘り下げて描ききっている。非常に面白かった。もっともシンプルであるその次元、ポイントはそれぞれ異なっている。

まず前者、『ザ・ファイター』から。
ヤク中の兄貴(クリスチャン・ベイル)と世話焼きでべったりの母親(メリッサ・レオ)とその家族に取りつかれている弟・ミッキー(マーク・ウォールバーグ)。
彼は兄のディッキーと違って連戦連敗のボクサー。彼がいかにして世界王者となったか。初めに目を引くのが、兄をやや鬱陶しがる弟。そして、テレビの取材を受けてハイテンションな兄貴。「俺が復帰するんだ」「テレビに出るんだぜ」「俺が弟をここまで育てた」…。あの病的にも見える“ここは『俺』の場所!!”的なふるまいは、強烈。しかし、それに輪をかけて強烈なのが母親とその娘たち。腹違い、種違いの姉妹が母親のもとにたむろしては飯食ったり愚痴垂れたりしているのは、ああこういうのって地元の脇道入ったらいるよね・・・とげんなりするほど。悪い意味での土着。大学に入って(中退はしたが)バーで働いているシャーリーンを「超生意気な大学出が」と言うところも、何とも言えない饐えた臭いがする。
そんな中でミッキーがボクサーとしてすべきことを考え、勝ち進んでいくのは痛快、というより爽快に映る。悩み苦しみ、そして出した答えを突き進む。王者決定戦で流れる曲には、“孤独だが自分で決めた道だ”というようなフレーズがあった。『Belle Epoque』をベルエペキュと読んだり、その必死な感じもまたよかったなあ。


ブラック・スワン
白鳥の湖」の内容をよく知らないのだが、白鳥と黒鳥がでてくるのか。純真・清純さの白鳥と欲望そのものの黒鳥。神経質で気弱なニナ(ナタリー・ポートマン)は、白鳥は申し分なく踊れるが、黒鳥は踊れないと見られていた。ベス曰く「不感症の小娘」――自分の中にある激しい感情を表現できない、と。プリマに抜擢されたニナが黒鳥をいかに踊るようになるのか。とってもシンプル。
しかし見どころは、主人公を中心とした体験世界。些細なことで死ぬほど驚き、欲望を知ろうとして現実と妄想の境目がなくなってしまう。感情表現にかんしては、演出もナタリー・ポートマンの演技も、観ていて気分が悪くなるほど素晴らしい。
ダーレン・アロノフスキーは『π』から愛してるけど、原点回帰というか、迷いに迷った末いっちゃん難しいのを選んでしまったよなあという感じ。他のジャンルを映画にするって難しくないですか。映画俳優がバレエを踊る、という。たとえば『武士道シックスティーン』の主人公たちの竹刀の振り方のひどいこと。というような話。それに、題材としても、バレエ好きならつい想像してしまう内幕に過ぎない。
ただすごいのは、それを一本の作品にまで作り“上げて”しまう力量。アロノフスキー作品の特徴でもあろう胸むかつくような感情描写が見事に結晶していたのかもしれない。

それは置いとき。