振り返り先週

先週は特に(なぜか)毛孔が開きすぎた。自分で開いたのだけど、また運動をしないと頭の方が激しく混乱し始める。その先を見たいとも思ったのだが、さすがに立ち眩みでぶっ倒れそうになるというか、倒れて動けないくらい消耗していたものだから、これはやばい、範間刃牙の10巻を読んで、これはさすがに肉体の限界を超えるべく一気に改造を試みなければと走りに行った(←バカ)。
走りに行ったこの頭で、先週の出来事をどのように捉えるか、少し試みてみよう。腹減った。
水曜日はいろいろあった、というのは先週に記した。次の朝バイクを走らせていると、湧く湧く何かが湧いてくる。「前期ヴィトゲンシュタイン」「数秘術」「空無(rien)」「供え花、媒介」「老人と女性、欲望、息を潜めること」「恢復」「体験にまとわりつく言葉、言葉だけの言葉」文脈的なものはない。ただ、湧いてきたものを忘れずに書きとめていたのだけれど、一つ一つに説明を加えたところで何の芸もないので、ここでいったいどうしようか。腹減った。ここでまず始点は「空無」としよう。バタイユ(またか)の言葉なり。はいはい。どうやら死について言っているのだ。死そのものを空無と呼ぶのではない。ググっても分からんので置いておこう。ただ、存在そのものの底に大きく広がる脱落、あるいは「ある」ことを尻目にただ広がる空漠、そんなものとして考えると、まったく自分たちの想像の及ばないような、我々……ここは格好つけずに「私」と言っておこう、「私」を心底脅かすような空白、ではなく空黒という感触をもったものだろうか。意識の埒外にあって、手招きしているようにも見えるそのわけのわからないものは、狂気のような、まずまともではいられないような所へ否が応にも連れ去られてしまうほどの強力なもの。また、それは対象でもないとすると?だからそんなことは何度も何べんも言ってるのにまだ気が済まないのか。ほんとに馬鹿のなんとやらである。しかし、私にとってやはり関心を惹きつけてやまないものなのが、言葉なのだ。言葉にならないものを言葉にしようとし、それは芸術研究を行う若い学徒の苦しみにも関心を引かれるものとなるのだが、その徹底的に正確な表現、語彙の選択というものに対して、教官はレトリックという装飾的な表現方法を提示すると同時に、「前期ヴィトゲンシュタインのようだとも言ったのだった。しかたあるまい。この感覚は(これも先週同じことを言った)、表現方法の限界を探るという名目のもとに、まるで“錐揉み”(きりもみ)して、自身の語彙とその感覚の幅の狭さに気づけず悶えるその苦しみ、ああ苦しい、ことばが見つからない、どうすれば伝わるのか、表現は無限であって、その先に豊穣な世界を開きうるのではないか、と思い悩むのだろうか。科学的厳密性を徹底的に遂行した言葉に、豊かさはない。そこに豊かさを見るとすれば、それは読む者の類稀なる幻想の広がりであって、それを全ての読者に望むことはできない。それを求める者は、どうしても正気なのだ。正気でしかいられない。苦しい。先を、先を見るようにするのならば、それは、別の文法を求めてゆくしかない。その延長線上で「体験にまとわりつく言葉、言葉だけの言葉」も理解していただければよい。言葉が言葉として自足することは、不可能なのだ。ある種の幻想を含み持つことで、それは血肉を得た骨として肉体となる。ただその使い方を見誤ると、どうしても、どうしても、主知主義というか、あかんのですわ。最近『東京島』を観たんですけどね、それで序盤は、もうなぜか精神分析的な理解の仕方をいつのまにかしておって、ほんにこの半可通はつまらんところに行こうとしておるんですわ。勝手にバラバラにして悦に入っておる。そんなことして得るものがないのならば、理解の方法など捨ててしまえばよいのですわ。何かを理解するその手立て、手段、道具、ただそれだけであって、そこにやたらな期待とか、全能性を見てしまってはどこにも行くことができない。だから(最近は「だから」が多い。何を順接しているのか分かっているのか。「なので」「ですので」と同じだろう!!!なにも保証なんかしていないんだよ!!!!!)「男の人って言葉にこだわることが多い」なんて言われるのに、それでもただ、何かを指示してそれが自らをアイデンティファイしてくれるかのように思いこんでいるのか、もうそれはただのうわごとだよ!! サイナラ!分かっててやっているのだから、たちが悪い。やるんならもっとやりこめとも思うのだけど、もうこれ以上はドン引きワールドということが8,9割のブロバブリーなので、なので(もう、アウト!!)、好きなようにやりますわ。バッターアウト!!退場!!