流れ、様相

言葉が現れるよりも先に、芸術的表現が現れるという。絵画、陶芸、彫刻、そういったものでイメージが表される、と。そこでは人々のパーソナルな部分が表され、文化的側面も十分に影響しうる。何らかの形での「光」。そこには様々な形式での表現が見出される。生い立ちをめぐる抑圧からの解放。新たなものの到来、その曙光。あるいはトランスパーソナルな面も「光」においては表されうる。しかし、強度、場、各々の要素が異なる表現は、ヴァラエティに事欠かない。私はそれゆえに目を背け続けてきたのだ。自身が何をしたいのかも分からなくなり、結局は「何も分からない」ところに素足で踏み込んでいった。いや、空舞う蝶を追いかけるようなものだった。もはや地に足付かず、私は超越性、瞬間性、神という冷えて固くなった言葉ばかりを目の前にして、うわごとを口走っていたのだ。
私にとって、そのテーマとは何か。冷え物を拾い上げることではなく、流れに身を投じることを。その奔流を眺めながら外からの印象を述べ続けたところで、それは傍観者のそれにしか過ぎない。捧げろ。言葉にならぬ(……)に身をさらしてこそ、観えぬものも観えよう。観えぬこともあろう。少なくとも、今のままでは手すさび。