「目」がある

「何者でもない」ということ。当然、口にする者によってそれは様々に姿を変える。誰でも知っている。例示しよう。何の地位も持たない者であれば、存在価値を見いだせないという、苦しみの声。何かしらの地位・評価があれば、アンチテーゼ(…何がアンチテーゼだ。それは何も言っていないのと同じだ)。そこに語る相手がいれば、謙虚さ、卑屈さ、小賢しさ、別の価値観をもっていることなど。そうではない。語る者によって意味が変わることなど、いちいち解説を加えたところで何になろうか。結局は各々の現れをただ相対化し、思考というものを形骸的に虚無化しようとしているだけだ。それだけではない。そのような態度は知識をひけらかしているように見えて、解説してみせている当人は一次的にとどまり、思考停止に陥っているのである。そこから脱してゆく必要がある。
少なくとも、今まで何者でもない、何者にもなれないと思っていた私が、まるで今何者かであるかのような立場にいる。それはひどく違和感を感じさせるものである。誰かにおぞましい教えを垂れたり、これまで続けてきたことが何の間違いか日の目を浴びることになり、初めて人の目を意識したような気がする。昔ならば有頂天になっていたか、あるいはその無邪気な態度を徹底的に断罪していただろう。これらの思考は、どうしても自身の世界を超えることはなく、仮に超えようとしたところでそれに目をふさいでいた。見ようとしなかった。いま感じたその人々の目は、思わぬところから現れ、しかもそれぞれの素性さえも良く分からない。私には、ただ知られたという事実がそこにある。彼らは何を思うていたのか。彼らは何を望んでいたのか。彼らはいかなるイメージを抱いているのか。仮に評価されていたとするのならば、それをどう捉えればよいのか。何者でもない、とはそこで湧いて出た言葉であった。私が何者かであるはずがない。何者でもない。奇妙な感覚、自身ではどうすることもできない、半ば浮遊しているような感覚。何が起きているのか。また次に回す。こんなんわからんわ。