とけてゆくのだ。

からだが、溶けてゆく。


レヴィ・ブリュールの融即*1ではない、これは何か。体を締め付けられ、そして締め付けているのは他でもない自分自身であるということ。「何者でもない」こと、それが妙な形でこの世に生まれようとしている。確かに私は誰でもないのだ。かつて自分が何者かであるかのような思いに囚われていたとき、同時に私は能力の無さを痛感していたのだ。自分にできることなど誰にでもできる。自分が考えていることなど誰かが考えている。人間その発祥より同形であったのならば、私のような生き物がいたこともざらだっただろう。数限りない人間が蠢いているのならば、たとえ職能などそのあり方は違うても、誰かしらが同じことを言っていただろう。最近になって、莫大な種類の出版物が出回り、アンディ・ウォーホルの"15 minutes of fame"、「誰でも15分間は有名人になれる」というせりふ、その中で時の人として褒めそやされても、その陰では「あんなことは俺だって考えていた」という密かな呟き。僻みや反発ではなく、たんに事実そうであったこともやはり数限りなくあるだろう。それは当然のことなのだ。誰が「個性主義」などと言い出したのか。誰が「自分にしかできないこと」などと言い出したのか。はっきり言おう。そんなものはない。ここにあるのは、有象無象の生き物と、それらが産み出す塵芥だけだ。
私は、幼い頃に見た夢を事あるごとに思い出す。赤銅色の、筋骨隆々とした肉体の男が、私の前を通り過ぎていく。彼は地中深くの、つるはしなど道具が無ければ到底砕かれないような固い岩盤、堆積して岩よりも固くなった土を掘っているのだ。モグラのように、彼は左へ左へと進めてゆく。その岩は固く、しかし彼の手にかかれば柔らかい。しかし、柔らかいが固い。私が柔らかいと思って触れたその岩肌は、私を拒むように固かった。強く熱を持ったその岩肌。その映像が、今でも思い出される。しかし、あの感覚だけが分からなかった。それから6年ほど後に、稽古で「もしかして」という直感が頭をかすめたことはあった。それとも、石綿金網のようなもの、石ながら綿というもの*2か。あるいは「からくりサーカス」ではないが、命の水、柔らかい石、アクア・ウィタエ。それらに妙なこだわりを持っていたこともあった。だがあの感覚が何だったのか、全く分からなかったのだ。そして数十余年、この時になって妙な感覚が結実しようとしている、と感じている。自身の既存の能力を極限までさげすみ、その能力の埒外に向かおうとする必死の姿。周囲の有能な者達に息が詰まりそうになりながら、劣等感を強く抱き、「こんなことは誰でも出来る」と自嘲していた日々。周りの人間よりも遥かに秀で、彼らを支配しようと思うその忸怩たる感情。無知であることを気にして、漁るように本を買い求めること。それでも、まだ足りなかった。「お前は社会に出ていない。だから世間も知らない。世間を知れば、常識が身につくだろう」云々、良識人諸兄のありがたいお言葉。だがどうだ。いま、とりあえずは外に出てみた。妄想じみた益体もない想像を抑えつけ、この目の前のことが最も恐るべきことであると信じて目を凝らしていると、はて私が恐れていたことはほとんど何もなかったのだ。同僚が言っていることなど、アルバイトでさんざん言われたことの延長で、ただ、私の言いたいことを片時も目を離さず抑えつけていれば、大したことは今の時点で何も起きてはいない。それよりも、一人ひとりの、本当に益体もない感情の無思慮な発露がなんと多いことか。言わなくてもいいことを言う者。先入観に囚われているのにも気がつかず、公然と偏見を垂れ流す者。自身が庇い切れないようなことを迂闊にも漏らす者。なぜ、何も考えずに口にするのか。しかし、私はそれを指弾できるような立場にはなく――そんな立場など永劫に来ないのも予感してはいるが――できる限り職務を全うすべく、限界と思われているようなその迷妄を一つずつこじ開けては、単純労働に還元させようとしている。何者かであるなど、信じられないのだ。明らかに不完全な生き物が、何者かであるなど、間違っても信じてはならないのだ。
そのなかで、私は無駄に付いた贅肉をこそぎ落としていく。ムンク「叫び」のように、世界が自身を削り落し、それでも飽き足らぬような形相で迫ってくる。柔らかいと思っていた場は恐ろしく固く、固いと思っていた場は驚くほど固い。歩けると思っていた足は地に縛り付けられているがごとく重く、体の振る舞いは考えられないほどに不自然に動く。一つ一つを確認し、より確実に、単純化してゆかねばならない。そこでは、もはや私は私ではない。「『私』である」ということも要らない。一切のこだわりを捨て、自身を削り落していくこと。無私の者などいないと知っていても、そこに向かわねばならないということ。これまでにない感覚が体を蠢く。今まで背負い続けていた自身に絡みつく欲望とその所産が、実は必要のないものだった、と。これまで私に追いかぶさり続けていた巨大な肉塊が私のもとを離れていくように、そしてあの赤銅色の、鋼の肉体をした男に変わっていくかのように。私は何者でもない。ただ、そこに、不可能事に囚われ続け、踊り狂う者のように、私はそこで、とけてゆくのだ。オルギーが、すぐそこまで来ている。狂乱が、無限遠の彼方の神を呼び、内在の一者が、私にとってかわる。こわれるように、そしてとけてゆくように。

*1:「融即律(ゆうそくりつ、principe de participation)とは、自分達のことを器物・生物・現象と同一化してしまうという未開人特有の心性の原理をいい、フランスの民俗学者レヴィ=ブリュル(Lucien Levy-Bruhl)がその著書『未開社会の思惟』において、未開人の心性が現代人と本質的に異なることを示すために導入した概念である。……未開人の心性を現代人の心性と区別するものとしての融即律は、こうして文化人類学の中ではすでに否定された概念であるが、集合的無意識の概念を提唱したスイスの心理学者カール・グスタフユングは、現代人の心理において主体と客体が無意識に同一状態となる同一性の現象がみられ、これは「主体と客体が区別されていない原初の心的状態の・つまり原始の無意識状態の・生き残りに他ならない」のであって、未開人の心性の特徴である「神秘的融即」は現代人の無意識の中に受け継がれている、と論じた」。wikipedia

*2:アスベスト。→wikipediaより。教えて!wikiさん!! wikiさん大好き!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!んl○さん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!wikiさん!