茫洋の海、屹立する知

ことばにもならぬ音を発し続けていることにどれほどの価値があるのか。ここでは、あるとしか言いようがない。もちろん、それを言葉として認識できる程度の狭量さしか持ち合わせていない私たちにとっては、言葉とは単なるフィルターでしかないのだが。ここで発せられるのは「では我々は何を語ればよいのか?」ではなく、むしろ「相手が何を語っているか」あるいは「相手は/自分は何をしているのか」という者に近くなる。言葉や主体といったものが基本的に価値観と呼ぶにはあまりに脆弱であることを忘れてはならない。その動きを捉え、眼の前の流動的なその「なにか」を、かろうじてその瞬間瞬間で目に焼き付けること、さらに言えばその語りぐちに同化せんとばかりの没入こそが、さらに何かにたいして向き合う、いや入りこむことのとば口となるのだ。
私は男性と女性の語り方の差異に目が向く。男性が言葉を駆使して屹立する知の集積、ファルスに向かうのに対して、女性はその茫洋たる事象の海に漂っている、という観方。それより観じて言うのならば、女性で精神分析的な捉え方を試みる人たちは、はたしてその茫洋たる海を言葉の海として観ているのではないか。目に映るものが何がしかの「言葉」として映し出されるということ。そこには何かしら強迫めいたものを思わせるが、言葉はそこで分析的な方法、流動的なこの世界を対象化し、死せるものとして捉えるためのものとして機能することを止めようとしている。代わりに言語が流動的な様相を帯び、あたかもオートマトンのように動き出すこと……明らかな誤読だが、そこでは「機械仕掛けの神」というものさえも浮かんでくる。
言葉は入口か。到るところに入口があり、到るところに出口がある。そこでは、入り、出ることが問題なのではない。迷い込み、同じところを何度往還してもそれに拘らず、ただ、一点一点の切れ切れになった言葉の切れ端をたよりに、別の地点へを映ろうとすること。何度でも生まれ、何度でも死に、それを永劫に繰り返す。生まれさせるのは自身ではない。他律的でしかない言葉によって何かが発生し、消滅していくにすぎない。本来はそのようなものなのかもしれない。ただ、身をゆだね、そしてそこでひどく覚醒している(と思っている)こと。よりさらに流動的に、そして同時に固定的に物事を見ること。強迫めいたその先を。