書くこと、向き合うこと

そうでなくて、また論点から勝手に逃げて世迷言に走ったのですが、まあどうすんでしょうね。自分に向き合うっていうのはなかなかない経験なんですよ。剥き身で立ち向かうような経験です。私の場合はそう、人から悪意を向けられたときにそれに近い感覚がありますね。でもそれでもやっぱり対人(ひと)であって、自分に問う所までいくのは難しいんです。小手先の方法論に流れて行ってしまうことだってよくあります。先の丸谷才一の話は、もう15年位ずっと覚えているんです。敵はまさに自分なんですよ。だから太刀打ちしようがない。そいつに切りつければ、自分が傷む。そいつはただの自分ではなくて、自分の幻想をまるごと背負い込んだ「自分」ってやつで、だからあまりにも大きく見えてしまうことだってある。そんなこと、ふつうはしたくありません。みんな自分が可愛いんです。傷つかない方法があるんならそれを選べばいいじゃない、逃げられるんなら逃げたらいいじゃない。何もそんな無理することなんてないんだよ?こういった言い方は、確かに相手をいたわる時によく使う言葉です。でも、これを自分に何のためらいもなく言ってしまうことには、ちょっと待ってほしいと思います。それは逃げですからね。言っとくけど。大事なことから目をそらしているだけですからね?何も考えていません、なんてのも同じです。考えてないんなら今から考えなければいけません。これは人に言われると、まるで自分が攻撃されているように感じるものです。そうではなく、もう一度自分が何者かよく考える必要があります。つまり、そんなことを言われるということは自分はそう見られている、あるいはそう言われてしまうだけのものなんだ、と。気をつけて下さい。このことは本当に見落としやすい。怖いことがあっても、ぐっとこらえて、そこで何が起きているのか、目の前のこともそして自分の心の中のことも含めて、じっと見つめる習慣をつける必要があります。そうしないとどこにも行けません。10年たっても1ミリも成長しません。ガキのまんまです。いつしか社会的に地位が高まり、家族や子を養うような身になれば、なおのこと分からなくなってしまうかもしれません。自分の弱点にとりこまれたまま、かたくなに自分を守るだけの生を送ることになるでしょう。年をとれば、比ゆ的な表現ですが、本当に目が見えなくなってしまうのです。目の前のことが、一通りでしか見えなくなるのです。悲しいことですが、気付けなければ、ずっと気付くことはありません。それも幸せですが、ある意味では決定的に不幸せだと、私は思うのです。