田口佳宏「第3教室」

モーニング・ツー、vol.35にて連載開始。初めから飛ばしている。大丈夫なのか、とすら思う。3年3組の担任となった老教師が教室に入る直前に天啓のようなものを受け、生徒たちを暗示のもとでコントロールし始める。作者はいったい何を始めようというのだろうか。老教師の意識はうしろの金魚へ移っている。まさか、宇宙人が意識を乗っ取ったなどという展開になるのか。あるいは、超能力者が世界の改変を望み、ついに行動に出たなどと?そのような話は聞きあきた。ライトノベルに多くみられるセカイ系というやつだ。何もそのような語り出しが悪いというのではない。それ以降の展開で、大きく広げすぎた世界観をかえりみずに「私」と「あなた」という2者間で物語は内面へと向かい、きわめて矮小化された(稚拙な)観念的な内容へと突き進んでいくことに強い違和感を感じるのだ。
しかし、田口佳宏氏がちばてつや賞受賞者であること、今回モーニング・ツーという年齢層のやや高めの雑誌に連載が始まったことから、そのようなことは起きないだろう、とも思っている。自らしつらえた舞台や自らのイメージに対し、その内容、構造を十分に生かした――例えば、各々の現象や行動を丁寧に吟味するようなハードSF的なものだったり、セカイ系どころか彼我の別を軽く超えた、例えば岡野玲子の「陰陽師」のような内容――を描いてくれるのではないだろうか。
本作でまず目に留めておくべきは、老教師の阿佐田、少年、そして(一応)金魚。少年も金魚も、誰にも興味の対象となっておらず、しかし自分の思考がモノローグとして表わされていることが共通している。傍観者としての立場だ。これに対して別の意識を持ち始めた、阿佐田の姿をした「何者か」が大きな力、影響力を持っている。彼、あるいはそのような意識体が物語の中心となるだろうことはカタい。
できることならば、「小川がうらやましい…ちひろちゃんに脳ミソ見られて…」と考えるような少年の少年らしさを大切にしてほしい。さらにはこの少年が徹底的に傍観者であってほしいとも思う。傍観者である、ということは周囲の出来事だけではなく、自分自身さえも客体視する能力を持っているということと同じだからだ。徹底的に冷静な目と、変わりゆく少年の心がどのようにブレンドされていくのか、とも思う。また、この物語で起きる異常な出来事――焦点の定まらない生徒たち、神的な意識の現れ、小畑健の「サイボーグじいちゃん」の冒頭を思わせるような事件――こそ、作者の醍醐味を感じられるところだろう。作者独自のイメージ、世界観、妄想といったものを、どのように物語に組み込んで行ってくれるのだろうか。

連載1回目から、「この作者が何をしたいのか」といったテーマを論じるのは無粋だ。これこそ、と思う人もいるのだろうが、この時点で、たとえば社会派などというレッテルを貼ってみたところで何が楽しいのだろうか。読者は、ぶつくさいいながらも作者に引きずりまわされるのが一番楽しいのだ。ただついていくことにしよう。
あいかわらず、本末転倒な文章である。