かせ、のろい、あくい

その場でしか物事を判断できない、というのは私にとって忌み嫌うべき対象ではある。しかし、しかし、自身の利害が目の前に突きつけられるとき、そしてそれに即するような対応を許されるとき、どうしても自分自身がその陥穽へと嵌まってしまう。王国記1「ゲルマニウムの夜」で、赤羽神父が“神父をやめて地元でたっぷりとホリドールを浴びる”ことが語られる。気分が最悪に下がり、自由が利かなくなった時、そのときが最高に堪らないのだ。いま、この足場のなさ、地に足のつかなさはつらい。頭頂から工事に使うあの背骨の形をした鉄の棒が突き刺さり、脊髄が潰されるような感覚を味わいたい。足元から凍り果て、あるいは業火に焼き尽くされるような感覚が欲しい。自身が圧倒的な力で縛りつけられるような、そんな絶望を。その不自由さこそが私を目覚めさせてくれるのだ。舌を捥がれ、目玉を抉られるような。自身が当然の存在だなどと思ってはならない。まるで糞袋、このぶよぶよした肉の下にはわけのわからぬものが詰まっており、それを包む皮は、今にも引き千切れそうになっている。あるいは、全く想像もしなかったような、獣の肉体に詰め込まれた魂のように、まさに無用、害毒以外の何物でもないような感覚。そもそも、私は私ではないのだ。かろうじて生きていることが奇跡のような、そんな肉体、精神なのだ。その肉体と精神を操り、私がそうであることを悟られないようにひたすら人間の振りをするような、二重に、三重に歪んだ動機をもって、ここに立とうとしている。何が悪い。そもそも、相容れない志向を持て余している自分が悪いのだ。矯正具を付けることに何の反論があろうか。