否、イメージ、行為、言葉

さて、今夜も益体もないことをいつものように垂れ流すことにしよう。
定量の圧力下で鬱積した言葉にならぬイメージの切れ端は、まるでスープの中の野菜のようにその残遺を漂わせている。これまで、いたずらに口を開いては益体もなく、しかも乾燥し切って意味さえも伴わないような声を上げていたのだ。もうやめにしよう。言葉は語られるためにあるのではあるが、言葉は本来言葉からなるものではない、ということに今更ながら実感を得ているように思われる。
私が、なぜいつも「言葉」と言い続けるか分かるか。それは一も二もなく、口から発せられる音に取り憑かれてしまっているからだ。そこに何か意味があるのではないか、それは何か力を持っているのではないか、もっと純度の高い、鋼鉄のような力を鋳錬して発することができるのではないか、と。もっと言えば、この馬鹿野郎は自分の“言葉”に惚れてしまっているのだ。自惚れの最たるものだ。醜いとしか言いようがない。自身の体を日夜鏡に映しては、切なげな恋の吐息を洩らす頓智気野郎と同じだ。だからこそ、この口を麻縄と畳針で縫ってしまわなければならないのだし、仮初に漏れ出るような声さえも、重大な罪するものと知って呻き上げなければならないのだ。そもそもここにいることこそが問題なのだ。誰が肯定しようとも、あるいは誰が否定しようとも、揺るぎようのない事実がそこに横たわっている。
基本的に、「否」という声は声ですらなかったのだ。それはそもそも存在せず、可か否かという判断さえもありはしなかった。可也、という妙な声が響いたものだから、やにわに概念的に対置されるべく、「否」はそうよばれるようになったのである。つまり、何の評価もない場所では、あなたはあなたでさえなく、あなたの行動さえも名づけられるものではなかった。原初、あらゆるものが未分節だったことを考えると、それは確かに当然のことではあったのだが、“〜ない”という否定的状況は我々そのものだったのだ。あいや、もちろん逆のことも言えるのだ。何もなされないということは、全て、という形容すら凌駕するほどのあらゆる範囲において、何事もなされうる、ということでもあった。しかし、そのような野性の時を過ぎて、今や我々は言葉という分節化の手段を得た生き物となっている。原初があらゆる肯定の場であったとするのならば、今はなんだというのか。魂よ原初に還れ、とでも?かつて可であったという視点で論を進めるのは、どうしても私にとってナンセンスとしか思えない。ああ歯切れが悪い。何が言いたいのかというと、今持っているものを崇めるような真似はやめろ、と言いたいのだ。分析だとか解釈だとか、もう熟練の方々はとっくの昔に得心していることなのだけど、現実に起きていることに対して自分でこしらえた小汚く小賢しい言葉をあてこんで悦に入るような真似は即座に止めるべきだ。恥を痴れ。それは仮のものでしかないし、どれほどに自分が苦心惨憺して絞り出したものであろうと、それは明晩にも腐ってしまうものなのだ。そして同様に、権威と目されている人物たちの言葉を、その言わんとすることが何であるかを検討することを止めて、まるで自分のものであるかの顔をして、解釈の道具として用いてもならないのだ。言葉とはそんなものではない。言葉とは、切り分けるための道具でもあるが、それと同時に、イメージの入口なのである。
武道において、よく精神論が述べられる。それは一体何であるのか。技術的なことならいざ知らず、具体的でないことが語られるのか。それは世迷言ではないのか。あるいは、そう言った精神論を技術的な方法論と取り違えて、まるでそれを念頭に置きさえすれば自分が高潔で賢く、優れた武道の者として成り立っている思っている者がいる。私は最近になって思い至ったのだが、私が昔から彼らに対して抱いていた違和感は、まさにこの、精神論の意義をほとんど理解しないまま、その字義だけにしか目を向けていないという点にあったのだ。熟練の人々が口にする抽象的な言葉は、それは本当にそれそのものなのか?私の現時点での答えは、否である。精神論とは、方法論が煮詰まった先に出来上がった言葉の集まりなのだ。それぞれの言葉に様々な意味があり――いや、ここではより明確に言うべきだ――精神論は方法論の質的な集積であり、それゆえに多様なアプローチが可能である。そして同時に、精神論とは実践すべきもの、実践に落とし込んで初めて、意味を持ち始めるものである。実際にやってみなければ分からないし、実際にやってみてもなかなか分かりはしない。試行錯誤を繰り返して、ふとした瞬間に、それは気付くのではなく、既に通過したものとして体得されていることがありうるものである。このアプローチにおいて、思索的な方法は権力を喪う。そこで我々ができるのは、自分が今何をしているのかを可能な限り振り返りながら試行し続けることであり、その行為を決していつまでたっても止めないことなのである。どこかに何かがあるという悲壮さを誰のためでもなくただ絶望的に抱えながら、捉えられない自分の愚かさを嘆いてひたすら試み続けなければならない。
先に述べたことと武道の云々は同じことである。鬱積したイメージの内側から来る非常な圧力に脅かされながら、それを検討し続け、具体的な試行を止めないこと。

どうも違う。こんな言い方では、まだよく分からない。