不毛の地

そして突然、彼は気付くのである。自分に足りなかったのは糖分だったのだと。神の啓示のように舞い降りてきたその直感は彼の顔を、精神を幸福で満たす。そうだ、そうだったのだ、と自分の非凡さに初めて気づき、普段使いもしない頭が叡知に満たされているような思いで、似つかわしくもない思索を続けようとするのだ。それから先の思索の中身については言うに及ぶまい。象徴的表現――彼の少ない語彙の中からご丁寧に選び取られたもの――を、宝石のように矯めつ眇めつして眺める。これは自分の運命的な象徴だったのだ、と。なんとも粗悪にして粗末な思いの巡りは彼を陶酔させる。
ひとときの幸福――これを彼の人間としての営為における幸福の獲得として称賛するのはたやすい。同様に、唾棄すべき愚鈍の塊だと切り捨てるのもたやすい。しかし、このような人間を誰が責めることができるだろうか。傍から見れば無害でしかない、哀れな人間である。彼が陶酔のうちに得たひと時の幸福は、それ以上でもそれ以下でもなく、また彼のものでしかないと同時に彼のものではない。彼は真にそれを獲得することはできないし、彼自身、自分が何をしているのかもよくわかっていないのだ。この混在こそに私の指摘する性質はある。上の2つの評価は、彼を“見る”ことから離れられない。いかに彼に対して何か言おうとも、彼はその評価者のうちに巣食い続けるのである。だが今あえて言おう。彼は私ではないし、私は彼ではない。それは別の“何か”の営みであって、紙魚が自らの糧を細々と食いつなぐようなものである。彼に強いて言及することはない。私は彼に対して何か言うが、それは、単に風がそよいだだけだと、そう言いたいのである。何もものすることはない。彼は私の“何か”でありながら、それに目を向けることを必要としない――そうやって、日々は過ぎていくのである。これは恐るべき分裂である。分裂は統合されることなく、延々と“何か”について囈を呟き続けるだけである。*1

*1:ロベルト・ボラーニョ『通話』より「アンリ・シモン・ルプランス」を読んで、なんとなく……