煉瓦のように

そして、このことだけは固く戒めておかねばならないのだが、学問は文学ではないのだ。さまざまな越境点はあるにせよ、まず立ち返るべき原点を意識しておく必要がある。そうでなければ、私の言っていることは本当に戯言――そこらじゅうに掃いて捨てるほどに溢れているような世迷言――の域を永遠に超えることはないだろう。確かに、形而上的な話題について切り込もうとするとき、学問は限界を超えようとして刺激に満ちた視点を我々に提供してくれる。だからこそ、それを味わうのは心躍るような体験として映り、あたかもそれが我々の生き方の指針を見直す契機とされるようにさえも思われてくるのだが、しかしそれはあまりにも危うい行為だと言わざるを得ない。「それはあなたの信念でしょう」かつてそういって、意見など耳にしたくもない相手の言葉を一蹴するような輩がいたという。正当な方法ではある。否が応でも相手に説得力をもって語りかけるには、強度が必要なのだ。私にとって論理とは強度である。それは自家撞着に当然陥るようなものであってはならないし、牽強付会な嫌らしさを備えているようなものであってはならないはずだ。ある種の暴力的な公的性質をもって語りかけることとして、論理を育て上げることを目標にすべきなのである。もちろん私のこの物言いこそが幻想であるのは承知しているが――それでもやはりまずは強度としての論理性を重視する必要があるように思われてならないのである。つまり、文学という豊かさは、様々な視点を許すものであると同時に、各々の視点が他の視点に持つ優越性はあまり存在しない。そして私が再三気狂いのようにつぶやいている学問とは厳密には一義的なものでしかなく、そこには語った者の言葉の優越が何にもまして勝るだろうものなのである。私の中に巣食い続けている幻想とはこのようなものである。たしかにその豊かさは我々を新たな道を拓かしめる力を持つが、そこに欠かれた論理的な強度ゆえに、豊かに拓かれた道は虚像とも等しい扱いを受けざるを得ない。そしてこの豊かさは内的な作業にふさわしく、個人の内的な発展を促すもっともふさわしいものではある。しかし、社会的な権力として扱われるにはあまりにも弱い。我々はあえてここで、外に向かって論理的態度をもってその新たに切り拓かれるべき道を踏破して行かねばならないと言いたいのだ。


あなたの城を本当に築きたいと思うのならば、その泥から水気を十分に抜いて煉瓦にしなければならない。それは砂であってもいけない。一見水となじんで強度を保っているように見えて、時が過ぎれば水気を失い、ひと吹きの風によってもろくも崩れ去ってしまうだろう。何百年の時に耐えうる素材を使いなさい。あなたがそこに一族が何代にもわたって住み続ける城を作るのならば。