芽吹き、言祝いで

それは誰の言葉なのか。
私はこの場で思うままに言葉をつむぎ続ける。つなぎ続ける。その日が何かしらの重みを持つような日になった時、私が不意に発した言葉はあたかも蔦が播かれた種から空へとゆるゆると昇っていくような光景を見る気分になる。その光景を言葉にしようと訳もなく胸が騒ぐ。何か大切なことを見つけたのかもしれない、という期待と不安の入り混じった思いが私を駆り立てようとする。そして私はその光景を文字に起こし始める。その空へ昇る蔦は私の言葉で構成されている。さまざまに枝が伸び、それらを描くことも大きな魅力である。しかし枝葉を書くことさえも労力である。眼の前に繋ぎとめるべき枝葉を見つけた時、立ち止り、本筋を脇に置いて枝葉を書き始める。すると、あろうことか本筋に費やされるべき道は振り返ると、かろうじて切れ切れの分肢が残っているだけである。私は何を言おうとしたのだろうか。そして怏々とする。思うに、一瞬で自身の考えていることが言葉にされたらどれほどよいだろうか。私の考えは様々に分枝する。分枝に対しても均等に力を割けるためには、私がその道の分だけ複数人いなければならない。時間が私一人の存在しか許してくれず、一つ何かを閃いては一つ何かを忘れる。その繰り返しである。せめて樹木のように大きく、同時に広がる何本もの手が、あるいは複数のことに満遍なく気を払える眼が、あるいは脳があれば。抓みとってきた言葉を生かして伸ばし、森のようにできれば。言葉は私のと人のによって大きく広がってゆく。そう、埋もれるのではなく広がってゆくのである。