分からないものは分からないんです

くだくだと言ってもしょうがないし、実はやっぱりこちらがよく分かっていなかったなんて可能性も十分にあるので自信を持って言えないのだけど、やはり分からないものは分からない、とはっきり反応することはとても重要なのだと思う。知ったような顔をして言うことの薄ら寒さはどこにでも付きまとう。ソーカル事件を御存じだろうか。私もよく知らないが(笑)、アラン・ソーカルという物理学者がデタラメの数式をぶち込んだ疑似哲学論文を評論誌に送ったら掲載されたというのである。こういう手合いの問題は結構どこにでも散らばっているだろう。まず、何らかの高度な知の形をした言葉が珍重されるという事実。あるいは権威的な存在の言葉が批判されることなく無条件にありがたがられるという事実。これらは同様に、それを受け取り手が受け取るものに対して批判的態度を放棄しているという点で共通している。もちろん言葉でなくともよい。振る舞い、様式、諸々の表現方法がその内実を問われず高尚なものとして祀り上げられる。「王様の耳はロバの耳」「裸の王様」……もう昔昔から無意味な権威の現われなど腐るほど笑いの種にされてきたのに、それでもこの事実は現代でも姿形を変えて私たちを欺き続けている。いや、正確に言うと、私たちは昔から変わることなく権威のためなら自らを欺き続けている。この人が言うから正しいのだ、などという言葉がいまだにまかり通ってしまうというのは本当に恐ろしいことである。ある分野での権威的立場を獲得した人が、別の事柄に関してしたり顔をして頓珍漢な事を言っていても、周囲の信奉者はそうだそうだ!!と一も二もなく飛びついてしまう。難しい言葉を言っていればなおさらだ。自分で考えることをすぐにやめてしまう態度は、多くの人にとって悪癖とも言えるほどのこびりつきようである。


デトロイト・メタル・シティ』という、最近映画化されたマンガをご存じだろうか。主人公の根岸祟一はポップでキュートなミュージシャンを目指しているはずなのに、実は望まずしてデスメタル界のカリスマ的存在。そんな彼は憧れのオシャレ界カリスマから面と向かって自分のセンスを頭から否定される。カリスマでなくとも、根岸の歌を耳にする人々にまで馬鹿にされる始末である。根岸はそれを逆恨みしてDMCのボーカル・クラウザー2世に扮しては暴れまわる。
もちろん、作中の文法に則って言えば、主人公根岸は圧倒的にセンスが無いのだろう。しかし実は、読者にとってなぜ彼らがかっこよくて根岸がかっこよくないかはあまり判然としないのである。根岸はそのような実際のところ意味の判らないような権威にすがりたくてしょうがない。だがその一方でクラウザー2世としてその無意味さを徹底的に暴き、こきおろしてもいる。ここでは、彼のコンプレックスが形となって現れている以上に、我々の「前提」の実際のナンセンスさが半ば無理やりにだが暴かれているということに注目しなければならない。結局は訳の分からないカッコよさなどただのハッタリにしか過ぎない、と呼びかけているようにも感じられる。
またあるいは、『闇金ウシジマくん』16巻に登場するAZEMICHIの落ち武者カット、あるいは男子のレギンス、スカート。


実際の生活における様々な価値はここまで無意味なものに映ってはいないし、もう少し複雑ではある。だが一皮剥けば私たちの信じているものなどナンセンスとそれゆえの滑稽にしか過ぎない、という可能性を完璧に拭い去ることは不可能なのだ。目の前の輝かしい存在の価値を今一度、そして何度となく吟味しなおす必要が絶対にある。もちろん曇りまなこでいることを真っ向から否定するのではないが、ただ私たちにとって何が必要であるかを検討するためには、まず自分の眼を疑うことから始めなけばならない。それは本当に価値や意味、実あることなのだろうか?*1
信じるのをやめろ。そこからこそ信は始まる。

*1:また、よく聞かれる「アイドルはウンコしない」という格言も同様のことと言える。それ以上の意味を求めない、という点で共通している。アイドルはアイドルでしかない。アイドルは人間ではない。ゆえにウンコしない。なんだこの三段論法もどき。個人的にはアイドルがウンコすると非常に面白いと思うのだけど、アイドルファンにとってはそれは全くあり得ないことであるらしい。取りあえず彼らは「知る」ことを拒否、そして放棄している、と言っておこう。