深海魚や『ディセント』について

言うまでもなく、光は我々の世界に満ちあふれている。少なくとも1日の半分、太陽の恵みたる光を糧として我々は生かされている。もちろんそこには我々が光を糧として受け入れるという進化的過程があったことを忘れてはならない。もし光の少ない場所において生物が生存を強いられた時に、必然的に光なしで生きるための方策を模索せねばならず、たとえば深海に棲む生物は、真闇の中で海底にあるものを餌として生きることになるのである。この場合、我々とは全く異なる進化の過程をたどることになることも容易に想像がつこう。そうなれば、彼らはいつの間にか陽光を必要としない体になってしまう。もし何らかの間違いがあって海辺に揚げられることがあれば、彼らはこれまで生命が永らえるよう作り上げてきた己の身を持ち崩すことになろう。陽光も、己の身に触れる大気も、圧力も、あらゆるものが己を殺す凶悪な要因となり、ついには死に至るのである。暗闇に馴らされた身は、陽光の下で殺される。これは、この世で当然とされる環境に生きる我々にとって驚くべきことである。少なくとも我々を生かす恵みだったものが、彼らにとっては死をももたらす恐るべき凶器になりうるという事実は、それまで生きてきた環境の気づかれざる側面を痛感させ、己の存在そのものの無邪気な信頼を根底から揺り動かすこととなる。このことは、また例えばニール・マーシャル監督による『ディセント』(2005)からもうかがい知れよう。
この我々の前提を揺り動かす事実を念頭に置きながら、光がこの世界に満ち溢れていることを改めて言及したい。我々にとってなんら問題もなく己の生を謳歌する者にとって、光はひとたび外に出れば満ち溢れている。文字通り“希望”の二つ名を持つ光は、その者の眼前に広がっているというわけだ。しかし、我々は常に心身ともに健全な状態を保っていられるわけではない。何かの契機に躓き、挫かれる。そのとき、己がそれまで当然と思っていた幸福な状態が、途端にきわめて危うい均衡の元に成立していたということを痛感する。そして彼/彼女は心身ともに、意識的・無意識的に回復へと向かおうとする。このときの状況を描きだすにあたって、光/闇というイメージのあり方は大きな役割を担ってくれる。当然と思っていた光の世界が、一転して暗闇へと変貌する。もしかすると、眼前の光景が変わったのではなく、己が光ある世界から転落したということなのかもしれない。少なくとも、己のアイデンティファイすらしていた環境がひとたび失われれば、混迷に至り、行き場を見失う。恐慌状態に陥る。すると今まで見なくてもよかった己の昏い影が形もない場所から突如としてあらわれ、己を乗っ取らんとする。それまで主導権を握っていた己は、己の常識が通じない場所でその権能を奪われ、なす術もなく断ちつくし、恐怖に己を食いつくされんとする。言葉もなく、ただ悲鳴を上げるだけの状況。あるいは、そのような妄念に取りつかれてひたすら膝を抱え蹲っているという状況。そのようなとき、人々は助けを差し伸べられたとき、そこに光明を見出す。この無能力の世界から、かつてそれは既知のもの、よりはるか遠くに経験したことのあるような親しみを感じ、己からも手を伸ばす。そして、差しのべられた助けの手と己の手がしっかりと握り合わされる時、人はその海の底から引き上げられるのである。己がかつていた場所へ、戻ることができるのである。彼は改めて幸福な状態を取り戻し、享受する。しかし、それまで当然だと思い、問い直すこともなかった状況はもはや彼にとって当然のことではない。己のこの幸福な状況はきわめて危うい均衡の上に成り立っているものであり、あの暗闇の世界は己の傍にいつも静かに身を潜めて横たわっている、ということを言葉もなく、時に戦慄を覚えつつ生を送るのである。
また、光の中にありながらにして、己の自己同定をし損じることもあろう。あまりにも満ち渡り過ぎる光のもとで何を標に生きてゆけばよいのか……幸福にありながらにして不幸に陥ったものをここでは盲目、愚かとは呼ぶまい。それは十分に起きうることなのである。自足するということを見失うことは、この時代に特に多い。結局は、彼らは己が享受のもとで生きているということを改めて己を生かす要件だと受け入れるか、またはより輝かしい光を見出すことによって己を取り戻すことになろう。しかし、ここで後者は前者よりも危うい立場を選んだことに注目せねばならない。より強い輝きを求めたものは、いずれそれ以上のものを求める。もっと私を助けるものはないのか、もっと、もっと…飽くことのない欲望が光によって掻き立てられ、その者は己を見失う程の魅力に取りつかれて太陽へと向かっていく。イカロスとダイダロスの逸話のように、彼は恐らく太陽の恐るべき力によってその羽をもがれ、墜落することであろう。そのとき、彼はそれまで昇り詰めることにのみ全精力を傾けてきた故に、結局は元のように自らを大地に立たせるということすら叶わないほどになっているだろう。闇は自らの傍に昏き口を大きく開けて、彼を今にも呑みこまんと待ち構えている。
もともとあるものを、それとして享受することは難しい。光は我々の周りにあり、常に我々を生かしているともいえる。それを疑う、ということは、「光がなくなる」というよりも、自身がこの環境と不可分の存在であることを対象化してしまう、ということなのである。それは一対一の対応関係にあるものでもない。当然のように有るものは己と対等ですらないのだ。