メザスヒカリノサキニ…

光の先にあるもの、それは人々の妄想でしかない。そこに「ある」と思っているものなど、人々の願望の照射でしかない。なぜなら、光そのものに実体はなく、よしんば先に向かうことがあろうとも、そこには実在物はありえない。あるとしても、それは単なる光源である。光源とは文字通り「光が発せられる、元の場所」であり、我々の求めているような「先」などではない。松本大洋はよく名付けたものである。「メザスヒカリノサキニアルモノ若しくはパラダイス」と。つまり光の先とは天国、楽園、理想郷という非実在の謂いなのである。もちろん多くの人々は知っていることだろう。しかし、この事実は多くの場面で見失われるように思う。光の先には何かあるのではないか、もし居るとすればそれは私たちの能力を超越した存在、すなわち神が……。神というものを想定すること、つまり宗教的態度は人間の根底を強力に支える存在である。もちろんそれを否定するわけではない。たとえば宗教の場合では、神という措定された存在の実在するという態度が現実の見失いとなりうるというのだ。時にそれは危険になる。光は強烈なものである。時に暗闇の中にいる我々の眼前に、光は燦然と輝いて現れる。そして人々は直観的に思いいたる。「神はこの世に居られるのだ」と。「神はいる」……居る居ないかなど、私たちに分かることではない。それが分かっていれば、私たちは何の疑いもなくこの世界を「神」という存在を実社会の構築に分かり易すぎる程に組み込んでいるのだ。それがどうだろう。一方では「いる」と言い、また一方では「いない」と言う。そんなものが実在する、と言い張ること自体がナンセンスなのだ。「神」とはそもそも実在の是非を云々するような存在ではない。「神」とは人の心に―それも信ずる者の心にのみ―存在する、としか考えようのないものなのである。それは時に現実を見失った人間には現実のものとして映し出される。そしてその思念によって捉えられたものは、一般には「妄想」と呼ばれる。このように、人が別のものを見出す、この点において、光はまさに象徴的機能を有するものだということができよう。この世で実体性の有無について最も明確に認識されておらず、非実体的なものだという事実を驚嘆という態度で迎えられる存在である。この「存在」という言葉も、仮に用いるものとして理解せねばならない。
光がその言葉で名指されるとき、名指す者にとっては、確かに、確かなものとして捉えられている。先述したように、光がある種の絶対的な価値を持って現れる程のものだからである。それはこの世を飾り立てるいかなるものよりも単純で根源的である。単純であるが故の根源性は人を容易に動かす。仮に意識しなくとも、そのイメージが人に残されることだろう。意味付けするまいと試みたところで不可能である。そうすまい、と思った瞬間にそれは人の心の中に確固たる座を見出す。その影響力は絶対的と言っても過言ではない。“確かなもの”とは、つまりその強弱の程度ではなく、我々の中に否応なく坐してしまうゆえのことである。それは恐怖に映るか、或いは希望か。言うまでもなく、様々な感情が仮託される。歓喜、希望、安堵、不安、恐怖…恐らくにして、その程度もあるが眼差される光はある種の確かさをもった感情を引き起こす。それは光の現われ方による。ここでは、「眼差す」・「見出す」光についてのみ述べる。「見出す」とはつまり、それを認識するということであり、更には存在として認めるということであり、また更には違和として捉えるということである。光について人は、大抵はそれをそれとして認識することができない。光ある場所にあっても、視覚を優位に用いる我々人間にとってそれは当然得られるべきものであるため、それは敢えて意識されることはない。むしろ、光が失われたときや更なる強さで照らされたときにやっと気づく程度である。光を見出すとはつまり、その存在を自らの視界の暗さの中に明るさを認めるという行為によって成立する。
「光が見えてきた」とは、おそらく“希望”の二つ名である。確かでないものであってはならない。不確かなものであれば光は揺らぐ。それまで向かう先も分からず歩むか歩まざるかすら決めかねるような状況に陥るとき、端的に言うと方向性を見失った時、それは「暗闇の中に居る being in the dark」と表現される。人は己の成立が不確かになり不安にあえぎ、恐怖に陥る。フロイトはこの状況を不安と評した。しかし、その状態を言語化することができるのはまた、そうではなくなった時なのである。それまで自分が暗闇にいた、ということが分かったとき、人はそれをやっと言語化することができる。とはいえ、その暗闇も、すべての人にとって同様の、のっぺりとした真闇だというわけではない。「光が見えてきた」という言葉を改めて振り返ると、これは、相対的に暗かった(冥かった)次元から別の、新たな次元へと移行した時の状態での言葉だと言える。自身の感覚を取り戻す、それは自己を同定する能力を再獲得したことと同義である。視覚を取り戻したとき、人はそこに何かしら肯定的なものを見出す。