ナイーブメン(にとって)の現象学

なぜ現象学を用いなければならないのか。実際の事柄を理解するには数多くの方法論が既に存在している。その中で現象学を用いるのは、“事象そのものへ”と向かうあり方が、個別性、事例性を注視する分野において重要な位置を占めていると思われるからだ。そこで得られた結果は一般性に還元することができない。しかし、事象そのもののあり方を示すことで対象の特異性や研究方法の独自性を明示させ、研究自体の持つ誠実さ(これを何というのだったか…)を担保することになろう(西條論文など参照)。だが、たとえば一般性をその延長線上において追及させるように、現象学は更なる研究を促進させる契機となるのだろうか。
確かに、「現象学現象学って、君はその先に一般性を見出そうとしてないか?いいかい、現象学っていうのはぼくの少ない知識から言っても事例性、個別性を求め、対象そのものをありのままに記述する『現象学的記述』を行うのであって…」そんなことは知っている。その上で、現象学は本当に臨床の研究論文に用いることはできないのか、と聞いているのだ。私は口で説明することが苦手ではある。三歩進めばすっかり忘れる鶏のような脳味噌しか持ってはいない。だが、現象学が何であるか、その入口くらいは大体分かっているはずだ。それだからこそ十分に説明する責任は生じるのだが、・・・・・・まあ分かってないのと同じか。人に伝えられなければそれは分かっていないのと同じだろう。

少なくとも先の論文がクソになった理由は、最初も最初、問題の冒頭からにじみ出している。大御所たちの名前を並べりゃいいってもんじゃない。誤読するなんてもっての外だ。少なくとも引用するためにはそれなりの理由がなければいけない。引き合いに出された言葉が何を言っているのか、読者に読み間違いのないようその意味を明確に示さなければいけない。詩的な文章で理解させようなんて少なくとも俺にはどだい無理な話だ。そういえば数年前に見た、彼の卒業論文はどのようなものだったか……あれは流麗な語り口だった。人を思わず納得させるような文だった。しかし、しかしだ。そこから汲みだされる内容は人によって変わり得るようなものではなかったはずだ。“明示する”というルールは十分に守られていたはずだ。詩や小説とは違う。もっとも、こうやって印象でしかその内容を思い出せない時点で論文として読んでいないのが丸わかりだが。
そんな状態で現象学を引っ張ってくるのは本当に危険な行為だ。みずから自滅の道を歩んでいるようなものだ。何とかしなければいけない。まず、何をしたいのか、話はそこからだ・・・・・・・・もう、一回全部捨ててから来い、と相談相手が口をそろえて言うのも無理はない。何もかもが不備だらけなんだから。不憫すぎる。