氷是なりコレラの愛

小野が辞し、吾れも乞う、先に見で、粗糖の湯葉、決まりのこと、みずいてや、きまし日増しきもの鳴らせば、さらにはと鳥の黄に舞わん。と鳥の烏の、烏の鳥の、利尻を地は過ぎ、野は幕張。子をなすやも小鳥の先の和の西に、軽くものしけれ、宿六は西に傾き、酉の煮しめにしかもそろり家はスクレ氏と如何にせんと岩湿りていた。じぇん(全)霊異界さしもの境は富に潤びて、わが屋敷のも木酉の枠知れず十姉妹。亡霊(もうりょう)この式の禅モンク炉ぶち蹴れば伸ばし延ばしにしていたし。月と向け、以下書く零歩敷く膨れ胃かす事例、酒粕の甘粕、酉知りこぶに食わせ得じ、時は亜星の干肉、けふも減ればと、ウォン暮れ死に困り酉増え介儀じゃ伊太利亜到り。鯨美味しっじょ、時事維持の載り可否引け日に、しつらいの稀な有黄の二期は暮神の亜酸燦々たる治癒とも魅したり。ふっかしぎ奈桶は駆る福富式の焚くの臭く、溶けに煎りたるわ。*1

*1:これはお分かりの通り、タイピングで連想に連想を継いでいったもの。意味を殆ど成していないが、しかし自身が使う言葉の偏りは明らかに見えてくる。すなわち必ずしも人間の打ち込むランダムな文字列が完全に恣意的になりえないのならば、これを突き詰めることによって何らかの一定した世界観も反映できるのではないか。私はここでジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』を思い出している。本作は読み通した者が極めて少ないだろうことで有名だが、それは日常用語を超えた彼独自の言語を異常なまでに多用しており、その大意を掴むことさえ非常な困難を強いられるからである。専門的な知見に関しては全く言葉を持ちあわせていないが、彼の作品のもつ魅力とは、その幾重にも折り重なった―しかもその構造を見出すことさえも困難な―自由極まる表現の世界にある、ということが、少なくとも言えるだろう。……しっかし、これではやはり何も言っていないのと同じではないか。丸投げ、うっちゃり!!