ヒグラシの波

深夜、外で知人との会話が途切れた。その遠くでヒグラシの鳴き声が聞こえる。モーターのうねりのようにも聞こえ、町中のどこから聞こえるのか、といぶかる。鳴き声はやむことなく、数百匹、数千匹と思しきヒグラシは波が打ち寄せては返すように響き渡る。いつ止むともしれない鳴き声。それは人の悲鳴にも聞こえる。ヒ・ヒ・ヒ・ヒ・ヒ・ヒ・ヒ・ヒ・ヒ・ヒ・ヒ・ヒ・ヒ・ヒ・・・・・・・気が狂いそうになる。耳をそばだてると機械のように一様の響きではなく、ただただ生き物のもつ不安定さを孕みながらヒグラシの声が私に侵入していく。うねる音の波に私は不安を掻き立てられる。
こうやって人は夕暮れ、黄昏時、逢魔が時に人ならざるものに飲み込まれていったのか、と思いが膨らむ。己の中に魔が湧いてきたように、形のない恐怖におののく。私はかつて車谷長吉播州弁かどこかの言葉で「走りやく」と使っていたのを思い出す。遠く遠くから聞こえる声、己がどこにいるか見当識を失わせるような遠さ。町中にいるというのに、己はどこかの人ならざるものの棲む場に迷い込んだのか。たとえようのない孤独。あの鳴き声が聞こえないところまで逃げ出したい。この空間が、この何もない場所に得体のしれないものがやってくるのが恐ろしい。この場が、あの声が恐ろしい。
ふと、ヒグラシは泣くのをやめた。しかし、私の中のざわめきはやまない。私の中にヒグラシの声がまだ響き続けている。とたん、体が熱くなり、ぐらり、と目の前が歪む。朱に染まる。不安で不安でたまらない…………ぁぁぁぁぁぁぁあああああっあああああああああああああああああああああっああああああああああああ!!! 気づくと私は声をあげて走り出していた。ヒグラシの声が残した無音の空間に耐えられず、私は声を上げ続けている。 ああああああ!!ぎゃあああああっあああっ、あっ、あっ、あああああああああああああああああああああ!!! 何か、私の中に棲む何かが恐ろしい。それを打ち消すかのように、逃げるかのように。声を上げ続けていなければ自分が保てない。私は燃える。燃えさかり、己が己でなくなっていく。静かな夜の街を逃げる。本当に、ヒグラシは泣いていたのか。あれは本当にヒグラシだったのか。