イテリアレルラ、薇全能、Yenthlenkirokと呼ばれた人たち

イテリアレルラ、じぇんまいじぇんのう、イェン・トゥー・レン・キルークと呼ばれた人たち。同一の存在、世界の各所に現れては姿をくらます泡のようなもの。さまざま異なる文化が様々異なる名をあたえ、底流するものに溢れんばかりの想像の極みを飾り付ける。それは我々が杖をつく年になったとしても本質は変わることがない。耳の奥から聞こえる「うねり」。言葉にならない言葉。声ならぬ声。吠えるでもなく、それが生き物の孔から噴き出たものかすらも判別できない音。絲を縒り、縦横無尽に絡ませてできた織物の先。風は緩やかに通り抜けようとして、また声を上げる。
れいあいれういあ、いじゃえいうりおおるう。こおるううるじじゅえけうるううまうぃいい…。
彼らの耳は我らのそれを駆り、彼らの体は、母なる地、その乳房に吸い付いて安んずる。彼らの喉はその空にして、また人の眼はさまざまな形姿を網膜にとどめる。翼、羽の一枚に目、目の奥に体。体は夜光貝の潮の先、そのまた先には湯殿の吐息、ことごとく生有るものも生無いものも夢を吐き、あたり一面が遠く離れた老婆の肌に沁み込んでいく。耳をつんざくような声が肉を貫き、孔は声を上げる。我は鳥の声、魚は腹の海、そそり立つ樹の元に寄り、一人囁く茄子の卵。あらゆるものはある。ないものもあり、それは知られ得ないこと。人は形あるものゆえに、形あるものと蜜月を過ごす。しかし形なきものもまた人の魂にあり、それは形なきものと優に親しみ、霏霏として散るささめきごとにも耳をそばだてうる。あらゆるものは交じり合い、ひぞひぞひぞ…と子を生すこともあるというのに、知に依る者はこれを恐れて目を瞑る。生された子は美味にして、佳き日を寿ぐ宴の迎え人となるが、知に依る者は知らずにいることを良しとし、波の囁きにも耳を塞ごうとする。彼らの裔は“すでにないもの”があるのを忘れ、本来の知への隔たりがいかんともしがたくあることにさらに望みを失う。なかにも昇る者はいる。護られてきた人の意地は溶かれる。言葉は先にあり、後にある。定められうるものはなく、ただ耳を傾けることが、遠く離れた子たるわれわれの務め。そうと地に手をかざしてみよう、そうすれば脈動は聞こえる。どくんどくんどくんどくんどくんどくん、この地に息づくじぇんまいじぇんのうが抱きとめるだろう。夢はまた深くなっていく。