「分からないこと」を隠す人

『何』は私の口癖。まわりのことはよく分からない。相手が何をしてるのかわからない。自分が何を考えているのか分からない。自分のやっていることに何の意味があるのか分からない。全部はっきりした答えはない。だから、『何?』『だから何?』誰も答えを知らない。私も知らない。ほかの人も知らない。確かなことなんて何もない。分らないのでもう一度聞く。『何?』howじゃなくwhat。初めからさっぱり。初めから分かろうとしてないし、だれかに教えてもらう気満々でいる。
目の前のことははっきり分からない。だから他と比べて説明する。あれとは違う。それとも違う。これはそういうものだ。だから特別だ。否定神学のような、目の前のことがさっぱりわからないという事実。目の前のこと、今この瞬間の自分にとって一番大切なもの。それが分からない。一番好きな人の顔が思い出せない。それと同じだと思う。自分が一番欲しいものは一番分からないもの。でも何とかしてそれを抱きとめようとして、言葉やイメージでいっぱいにしようとする。でも全部ちがう。目の前のものは、そうすればそうするほどに遠く離れていく。気持ちが離れたときに、やっとそれが何だったか分かる。自分とは関係のないもの。関係ないから分かる。自分とつながっていると、ちがう、自分「が」つながっていると、分からなくなる。
いつもはちょっとでも分かろうとして、驚きの言葉をよく使う。「意外に」「思った以上に」「何と」「驚いたことに」とか。でもそれは、自分にとって何でもないこと、まだなんでもないことが本当はすごいことなんだ、とかっこつけてるだけ。自分でもよくわかってないのに。だから、そんな言葉を使っている時、自分は本当はちっとも面白くないし、他の人がもしそれで分かったらもっと面白くない。腹が立つ。居心地が悪いし、私は分かりません、と皆に告白しているようなもの。だって驚きの言葉ってそういう意味だ。知らなかったことを告白している。普通は、今まで知らなかったこと、なんだけど、実は驚いている時点で全然分かっちゃいないってことを本人はわかってない。気持ちだけじゃ目の前のあなただけじゃない、たくさんの他の人になんて絶対に伝わらない。気持ちで全部分かるのなら、なんで言葉があるんだ?もし分かる人がいたら、それは別の生き物だ。動物だ。それとも、驚きの言葉を使った人のドッペルゲンガーだ。それかウソつきだ。伝わる気持ちがある、なんて誰にでもできることじゃない。私とあなたは別の人。だから同じことを感じることはできない。
分らないことは分からないって言えばいい。でなきゃ誰も自分のことをわかりゃしない。