供物、神の腹

イェルゲレクの長たる我執が妨げになっている。息子たちはそれをすでに知っている。長としての特権はもはやなく、文化面でも衰退した結果の麗しき反映と見るのが適当だ。本来ジグリットは自ら投げ出して古き都市に捧げる子羊を剥がねばならなかったのだ。長の長たるゆえんは、その犠牲にあり、私たちはここに何ら異論を挟まれることはない。イェルゲレクの民は他の族と異なって、退潮が運命的、必定ですらある。神の腹に居ます異物は、いずれ淘汰されるというのが定説である。つまり、われわれは所詮箱庭の玩具なのだ。主の腹の中でよいようにしかなされることのない存在。神は腹に浮かぶイェルゲレクを矯めつ眇めつ見晴らして、この借景を楽しんですらいる節がある。

「決め手は魚の尾に払い落され、コムニの法は遼遠となる。赤子は零の月に笑う」(リルオイ,983)

以来救い難い俗説は星の数のように現れたが、不思議なことにその分問題の領野が俯瞰できるようになり、裾野の広大さは人々を圧倒した。混迷に陥る論客を置き去りにし、たどり着いたと思えば目と鼻の先に生身の乳房を現して腰を抜かさせる。この奔放さ、恐ろしいまでの禁忌への近さ、そして人々への核へ迫る原型的存在を我々は忘れるべきではない。コムニの法とは、外見からは身を縛る言葉の網そのものであるが、そこから滲む身体の苦悶の象徴たる体液が更なる倒錯と可能性をほのめかす。しかしこれまでこのことに言及できるものは少なかった。文化的抑圧があったのだ。遠く離れた島の伝えによると、セモイ人は長を神に捧げる際に己が肉(しし)を皆で分け合って食べる風習があった。これによって神と人との契約が為され、更に分かたれた血肉はすなわち人々の呪いとして膾炙される。法に乗る者の呪い、それは賢しらに解釈されることを禁ぜられ、しかし人々はなお法を説き/解き続けることである。この矛盾は、神からの使命を順守することが己の世界を永遠に広げ続けられることにつながる、という意味を孕む。賢しさによって膨れ上がった頭の重さに耐えかね、押し潰されることをすら神の恩寵として、コムニの法、いやここではグル(供物)は働き続ける。
イェルゲルは朽ち掛けた花を前にして、これからどうするだろうか。賢をとるか、さて眩ましによって自らをも欺くか、いずれにせよ朽ちた花には虫が集り、実を啄みに禽が来る。更の世への供物として、与えられるのもまた事理の一つである。