胸が腐る日には

世の中に出ることを恐れる人間の、成れの果てとして在る者。救い難いとはこのことであり、実際その底に流れるのはもっと根本の性が捩じくれ曲がった者の賢しさで、それによって腐り果てた今の姿が私にはなんとも言えず呪詛以上に己に響いてくるのである。生の声の強さ、そこに無下に立ち向かわされた言葉の無力さ。「おつたいがなあ、うろたんりりもお」と、あの娼婦と壮年の男の経文が私の頭にひらめいたとき、私はまたこの本を手に取って読んだ。

「あんた、これからどないするんや。竹下のきみ子さんな、西ノ宮の方のええ家(ええ)へと嫁に行とったったけど、子供置いて返されて、家におってや思いよったら、この頃朝三時に起きて中央市場へ皿洗いに行きよってやがな」
「そうか」
「そうかやないやろッ、銭(でん)の無い人間はスクラップと同じや、この頃そんな自動車が沢山(じょうに)田んぼの真ン中に積み上げてあるやろ、あんたあれや」
私は静かに顔を上げて母を見た。
「何やいな、その顔は。そなな恐ろしい目で私を睨んだら恐いやないか。そらな、あんた毎晩遅うまで起きとって、そいて朝遅うに起きて来たら、こないして一人前ちゃんと味噌汁も残してあるし、御飯も炊けとう。極楽やないか言うてお父さんも言よってや。きみ子さんも成れの果ては市場の皿洗いや。偉いやないか。あれだけの別嬪さんやのにキャバレー勤めもせんと。あんた家、行蔵さん毎日家の中に坐っとってやみたいやけど、何ど病気け、言うて、今日も竹下のたみ子さんに田んぼで尋(たん)ねられたけど、私、言う言葉がないやないか」


『吃りの父が歌った軍歌』(「鹽壺の匙」p228-229、新潮文庫

青春小説ではないが、読んでいると脳天あたりがぐずぐずと疼いてくる。吐き出されるため息からは肉の爛れた臭いがする。暑いさなかに体の芯は冷え、冷汗が幾筋も流れる。読まずにはおれず、まるで読経をするかのように繰り返し繰り返し読み続ける。