必然性のなさ、当然ではないこと

今まで気付かなかった劣等感を突きつけられるとき、足場を失って、まさに度を失って、世界がズルリと皮を剥き、見たこともない異様な世界を映し出す。きっかけは本当に些細なことで十分なのだ。「気付かなかった」ことに「気づく」とき、それは喜びでもあったりするのだが、今まで見たくもなかったことを唐突に知らされることほど嫌なものはない。冷汗が滝のように流れ、周りが何をしているのかも分からなくなる。
 これだ。この不確かさの積み重ねが、私を一層ネガティヴな方向へと追い立てるのだ。一歩ずつ進んでいるかと思われたその矢先に、「それは違う」と足払いを喰らい、それでまた己の寄る辺なさが剥き身の赤肌のように周囲の空気を針へと変える。息をつめて、若人の喚声をすり抜け、己を保とうと必死になる。そしていつの間にか目的地にたどり着いている、と思えば一瞬後にはそれは単なる虚飾であると知らされる。賽ノ河原にて死んだ子が積み石を鬼が見回り、爪の先で突き崩す。いっそ死んでしまったほうがなんぼか楽か。徒労の重ねは無気力を誘うと言うが、徒労は徒労のまま重なっていく。そして、いずれ無価値だと気付いたときにはもはや時間の残っていないこと、そしてもう何をしても無駄だという諦めが私を襲う。生きていることに何の必然性もないのだ。


 最近近所からちょっかいを出してくるクソ餓鬼どもがいる。髪の毛を金に染め、ダラダラとした格好で人を舐めてかかった表情をしてフラフラと歩いて来る。「死ねやボケッ」お前が死ぬがいい。生きていることを当然だと思っている奴は悉く死んでしまえばいい。生きていて申し訳ないと思ったことはないのか、生きていることに有り難いと思った奴はいないのか。鬱になってしまえばいい。精神的に苦しいということがどれほどのものか知ればいい。許し難いほどのその無感覚さは最低の努力すら放棄することで生まれる。死にたいという感情を味わえ。死ねず生きられずそこに居続けなければいけないという苦しみを知れ。
 つまり、当然だと思っていることほど不自然なものなどないということだ。父は子に弑され、父は子を喰らう。サトゥルヌス。それは実は異常なことでもなんでもない。起こりうるべくして起きたことであり、そこに何ら本質的な反論の余地はない。人権擁護を振りかざす者はこの点に徹底的に無関心でいる場合が多い。みずから虐げられるということに敏感であり過ぎるがあまり、生きることを、人としての当然の権利としてひたすらに食らいつく。人を人とも思わない態度で厳しく罰する。それは他人(ひと)ではない。自分が区別し、虐げることになる可能性を全く無視している。自分が醜いということを全く分かっていない。
 人の醜さとは、不寛容にある。人の賢さとは、他者への寛容にある。自己にすがりつけばすがりつくほど、人は己の愚かさ、醜さを露呈する。これでもかとばかりにあらわにする。知性をかなぐりすてる。かなぐり捨てているということにすら気がつかない。ルドルフとイッパイアッテナの台詞から引用すると、「教養がない」ということになる。自分が生きていて当然だと思う者は、まず疑ってかかれ。みずから尊しとする者は胡散臭い。最大に譲歩し、その残り物があなたの取り分である。すべて奪われても何の不思議もなく、何の憾みもない。生きていることに、必然性などないのだ。