付喪神の脹脛(ふくらはぎ)

 探し物を求めているとコトリ、と音を立て、私が振り返ると、何かが足を生やして逃げて行った。鼠でもなし、人のように立て足であった。五寸ほどの小さき人。これが世に言う付喪神だろうか。細く筋張った脚に、針金のような脛毛がごわごわと生えていた。それがなかなかに印象的であった。今ではお目にかかることのない、貧乏性な水呑みの脚である。尖った爪が人ならぬ風を加え、思い出す今でもともに小虫の囁き声が耳の奥に響いてくる。
 私が家は物持ちのいい家系で、爺の代からといわず某左衛門之丞だか助六だかの頃のものが埃かぶって所狭しとおかれている。これでも蔵に持ち込んだ方なのだ。それでも箪笥だとか火鉢だとか三面鏡だといった使い勝手のあるものはいまだに表舞台で活躍している。それだもので手鏡白粉箱簪その他もろもろも気づかれずそういった道具の内に仕舞われていることがある。果たして彼らが付喪神と成ったのだろうか。九十九年と言わず二三百年を経たものもあろう。物に命が宿ろうと、あながちおかしい話ではない。
 やけに付喪神の脹脛が気にかかる。ついぞ見たことのないものを目にした。付喪神の足は人のそれだったが、それをモミジの餡かけのようにして食べるとさぞ美味しかろうと思う*1。コリコリとした歯応え、骨を舐る心地。仮初にも神を舐ろうなど大それたことを考え付くものだと我ながら呆れるが、不意に湧きあがった食欲にはなかなかに敵わない。


 爺によくよく含められたことを今更ながらに思い出す。物を粗末にするな、侮るなと。私の妄念は物への侮りだろうか。軽んずれば報いがあろう。そもそも魂の篭もった人外は、多くが人に害なすものであったという。目にすれば死ぬ(白うるり)、気が狂う(狂骨)、高熱を出す(くだん)など、目に触れただけでも只事では済まないのが物の怪の恐ろしい所である。物の怪の名通り、物が普段とは違う怪しい様子を帯びる。人の心、気は揺れる。否、心が揺れる故に物が狂性を帯びて映るのか。先に挙げた物の怪と影響を比べてみると、多分にその傾向が見えてくるようでもある。人ならぬものが人の形をなすとき体を病み、死を象徴する禍々しいものが映るとき気を病み、果てにものがものとすら捉えることがかなわなくなったとき死へと吸い込まれる。これを精神が病む過程と捉えるのも即断に過ぎるし、そもそも無粋である。人はその狂性の在り方を身をもって知っていた、ということのみにとどめておこう。
 現代は物質信仰が根を張り、もはや見る人も少ないと思われているが、それは姿を変えただけである。物の怪は狂気とないまぜになり、形骸となれば文字通り抜け殻となる。よりさらに微妙の境、間、襞へと隠されるがゆえに、人はその恐ろしさを知ることなく、さて易々と踏みつけにしていくのかもしれない。そう思えば恐ろしいことである。

*1:『(鶏の)足の部分をその形状からモミジと呼ぶ。どちらも中華料理や西洋料理、ラーメン等の出汁を取るのに使われる。モミジは中華料理では「鳳爪」(フォンジャウ)と称して、皮を食べる食材にもされる。』 wikipedia 「鶏肉」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%8F%E8%82%89引用