食欲/寸止め

いつしか、私は自分の欲望を抑えることに不思議な魅力を感じるようになった。本能、中でも食欲はおぞましいほどに飽くことを知らない。その食欲があまり感じられないのだ。もはや4分目くらいで十分にさえ感じられる。食すればその時の満足が残る。しかし、腹が膨れ上がったときの感覚は何とも言えない嫌な気分になる。後悔する。うまい食べ物でも度を越せば苦しくなるだろうに決まっている。食べたときのその瞬間を味わうのならほんの少しだっていいはずだ。私が見た少年少女の中には、自分の食い物を確保しようと必死になって食卓のものを喰い漁る子がいた。本当に必死なのだ。彼らは本当に腹がはちきれるまで食べたい、いや、食べなければならないと思っているのだ。もはやそれは呪縛である。傷つけられた本能が個体の生存を脅かされたことを心に刻み付け、壊れたCDがひたすら同じフレーズを繰り返すように、食べろ、食べなければいけないと思わせている。理性なんて物の数でもない。
もちろん、「欲望の制限」に関してはこれのみを挙げて言うのではない。
人間の三大本能に食欲、性欲、睡眠欲があるという。本能とは、それゆえに根絶することのできない欲望の原動力である。生命を駆動するための必須条件には、欲望という形で人間を駆りたてるメカニズムが備わっているのである。食欲―昔から食べることには特別の価値が置かれてきた。戦前の人には、たくさん食べろ、と言う方がいる。どこで間違ったのか、食べられることが最高の幸せだとのたまって憚らない者がいる。しかし、私は食べることがどれほど人間の欲望を無駄に満たしているのか分からないのだろうか、と言いたい。必要最低限でいいのだ。日常生活を送れるため最小限の食でよいのだ。ほんらい人が自分の仕事に全精神を傾けていくとき、もしくはそれが精神的な側面を持てば持つほど、本能衝動的な欲望の充足に大した重要性を感じることはなくなると思うのだが…人間は食べることを目的として生きているのではないだろうに。日銭を稼ぐことに疲れた人々は、もはや食べることが唯一の幸せだ、という。目的と手段が完全に転倒してしまっている。また一食一食をいちいち必死になって胃に詰め込み、あるいは享楽を追求する堂々たるジャンルとして扱っている人間がいる。恥を知らねばならない。
皮肉にもいまになって、「まだ見ぬ書き手へ」というかつて気狂いだと断じた文章を書いた丸山健二のことばが分かってくるようになった。小説を書くために自分の欲望を極限まで削り落すべし、という彼の文章は狂気以外のなにものにも見えなかった。この禁欲の意味が分からなかった。しかし、何年もこの屑のような命を永らえて行っても、自分の欲望をもてあます時期が来る。その渇望に堪えきれず満たした時の、その虚脱感…。そこにすべての欲望が流しだされてしまうのである。文化的表現への内圧までもが、一時の享楽とともに形もなく流れて行ってしまうのだ。その情けなさ。己を撲つための拳を振るうことすら気だるく、だらしなく腕は地に垂らされる。だから、丸山は言ったのだろう。極限まで追い詰めろ、と。表現の可能性はそこから生まれるのだ。
また、倒錯的な視点からももちろん理解できよう。そこでは、いまだ果たされない故の限りない欲望の方向性が生き残れることを保障される。射精を止められた先に永遠のロマンが残る。