秋葉原一件から恨み言まで

とあるブログの記事を読んで秋葉原の一件について考えるが、自分にとってどんな場所も安住の場ではなかったことだけが分かる。秀でたところに行き評価されたい、自分より秀でた人よりもさらに秀でたい、というようなことを思って昔は心を砂にしていたのだが、そんなものはあっという間に崩れ去る。それがいつの間にか恐るべき事実に直面する。①周りはいたって普通の人間で、下手するとバカも結構混じっていること ②そして自分より賢い人間なんて本当に数え切れないくらいいて、たどり着くどころか影さえ見ることもかなわないということ ③この場所にいくら秀でた人間がいるとしても、今まで振り向きもしなかった世界に賢明な人間はごまんといること、 この3つくらいの気づきが私を絶望させた―いい意味で言えば虚飾を剥ぎとってくれた。こんなことは「恐るべき」でもなんでもないのだが、それに気づかないのが人間の視野のホントーに狭い所で、今まで気付かなかった自分は何という愚かな生き物なのかと痛感するのである。しかもまだそこ当たりの偏見がシミのようにそこかしこにこびりついている。愚かな生き物だと言うことが常に私を苛む。そこでどうするのか――ここからが問題なのだが、全てを投げ出しても別に構わないのだが、それではあまりにも勿体ない。逃避でしかない、と思う。となると、自分がいる場所で自分ができないことを徹底的に自分に課するしかないのだ。そういえば、最近稽古をやって驚いたのが、自分が有利な瞬間に立った時、それを分かっていながらあえて私は自分を不利な位置に置きなおそうとしていた。それに気づいたとき、軽くショックを受けた。私がいままで下手を踏んでいた理由の3〜4割がこれでできているとも思った。あと6〜7割はもちろん器量、能力、才能の問題だ。だから、最近は受苦こそ悦びであると思って物事をやらねばならないと感じる。できないことを徹底的にやって何が悪い。生来の鈍牛が人並みに生きようとするのなら、当然の労苦だろう。しかし、その態度を「立派」だとか「真面目」だとか言う奴が本当に多い。そんな奴は死んでしまえばいい。絞め殺したい。人を評価する前に自分の頭のハエを追え。一般的な言葉で突き放すのは残酷だと思わないのか。その言葉の空虚さを感じたことはないのか。その言葉が人を絶望させると思ったことはないのか。もちろん表になど出さないし、そんなことを実際に目くじら立てていても何の利益にもならないから言わないだけのことだ。人を軽々しく評価する奴は恥を知れと言いたい。