ケチャップの本当の食べ方

私はケチャップを口開いた。
赤と呼ぶには優しすぎ、オレンジと言うにはまだ赤過ぎる。いわんや朱色をや。かような食えない色ではない。敢えて言えばそれはケチャップの色、すなわちケチャップを独自たらしめている色、cat‐chap soulの色であると言いたい。
北欧伝説においてケット=シー(cait-sith)は白黒のぶち猫であり、物言う猫である。またchapとは幼子の俗称であり、ケチャップなるものは猫の子の魂であると推察される。このケチャップ色(と只今より私が命ずることにした)は生命の輝きであり、それは人間の魂とは異なる。赤き果実と猫の子の魂はきわめて親和性が高いということができよう。古来から果実とは諸物のfruitであり、物事の実りある結果として捉えられてきた。猫の子とはその象徴を負うものであり、あの手足も立たない幼き生き物は、人心を惑わす愛らしさと叡知をのせてわれわれの前に立ち現れるのである。諸君はもうおわかりであろう。「わたしはアルファであり、オメガである」*1という言葉が、ここに顕現している。終わりにして始まりである猫の子は、もはや一介の魂などではない。人間はおろか万物の生命の流転とその繋がりが何であるかをこの世に生きる人間たちに知らしめる、象徴としての魂なのである。
人々はケチャップを何気なく手に取り、dressingとして用いている。しかしケチャップとはdressingなどではない。食物の主要たる地位を占めるmain dishとして、口に運ばねばならないのである。口にケチャップを流しこんだとき、突然に襲いかかる赤き果実の香りは神へ近付く第一歩である。噎せこむことで鼻孔から噴き出るケチャップは、人間が真実への驚きを示す、慎ましく敬虔な態度の現れであると言ってよいだろう。
日本文化と相容れないと言っている方は用心召されたい。白飯に、味噌汁に、沢庵に、魚の煮付に、ケチャップをかけねばならぬ。その異文化の渾融は我々の口を驚かすが、文化を超越して今、我々は物事の真実を体験するのである。

*1:「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終りである。」新約聖書 黙示録22章13節