貧乏人vs霊vsバイク屋

まったく何だというんだ。何なんだ。帰りついて駐車場にいつもの自分のスペースを探すと、見慣れない大型二輪が置いてある。なめてんのか、と思って他のスペースを探してそこに突っ込もうとする。すると、アクセルもかけてないのにいきなりバイクが暴走しやがるんだ。一瞬何が起こったのか分からず、とりあえずブロック塀から10mも離れていないところで蛇行を繰り返し、ブレーキをかけるのだがそれもむなしく、時速30キロで動き出す。それで壁にドガンだ。幸い外傷もなく、ぶつかった後もバイクはまだ回転していたので事態はさほど深刻ではないものの、はたして片方しかないバックミラーが折れ曲がってしまいにはちぎれるという始末。おいおい何なんだこれは。もしかしておれ、アクセルかけっぱだったか?兎に角誰も見てないか確認し、一人いたけどまあどうするわけでもなく、とりあえずバイクが動くかを確認して駐車する、と。大事を取って明日はバイク屋に持っていく*1が、はたして原因は何なのか。微妙な方向に腕がねじれて肩の筋肉がきしむ。誰の仕業だ。おれか?そんなベタな答えでも全然かまわないのだが、畜生、超能力説と心霊現象説は熱烈に押しておこう。どっちにしてもふざけんな、だ。おれは金がないんだ。明日バイク屋でどれだけボラれるかわかったものではない。ろくに飯も食っていないのに、そんなところに金をかけてたまるかってんだ。畜生おれを呪った奴出て来い。縛り首だ。と、1時間前の出来事をおぼつかない頭で記す。しばくぞ。*2 *3 *4

*1:日曜日はたいていのバイク屋は休みである。

*2:ばかやろうふざけんな、とひとりごち、まだまだ書き足りなかったのでもう少し補足だこのやろう。別に何が言いたいわけでもないが、最近のミュージックシーンがどうなっているかなんて知りもしないので、適当に雑誌を見てみると、何々羞恥心?そんなグループのメンバーがゴッドファーザーの格好でなりきりスナップ。まあどうでもよろしいが羞恥心とは何ぞやとネットでチェックすると最近のアイドルグループらしい。ちょうどジャケットも見ることができたのだが…なんとも時代を20年ほど先取りならぬ後取りしているようなデザインすなわち青空アンド妙にパステルカラー?原色?まあどちらでも結構、そして三人並んでスマイル、みんな笑顔で正面撮りってあんたどんなセンスをしているんだねと問いたいが日頃から受容的な態度を取っている私は違和感をぐっと飲み込み、へーそんな時代になったんだねと軽くスルーしたが羞恥心ってまた、恥知らずな名前じゃないかお兄さん、あそうか分かっててやってるという点がミソなんだねふーんだからこんなにバカっぽいんだねいやはや奥が深いね、ってこんなの誰が買うんだよまったく、最近の若い子の気がしれないよああ世も末だね青赤黄って信号ですかもう、見ているだけで恥ずかしいので世に出てこないでください。こんなセンスは社会が許しても私の心は閉じていますよ、と虚空を見て妄想する。はいこれで敵を作った。こいつうざい死ねって思った人挙手。分っててやってますよ私。

*3:細部に拘れば全体を損ない、全体に拘れば細部を見落とす。私の日々のようである。日常生活では、一つ事にとらわれればそれがいかに論理的だったとしても本筋を違えてしまうことなど茶飯事である。そうではなく、常に視点は広く持たねばならない。今のままでいいのか、他にもまだ考えることはあるだろう、そういった懐疑の態度を常に自分に浴びせかける。そうすることによって自ら設えた規枠で己を苦しめる。もちろんそれは目の前が歪むような苦しみをもたらす。しかし、ふとしたタイミングでそれを超越した視点を持てることがよくある。雛鳥が卵の殻を破るかのように、いやより無自覚的に、やはりふとした瞬間に新たな視点が開けるのである。若さゆえの妄想ではある。しかし安穏と暮らしているつもりが、いつの間にか救いようのないほどに足場が崩されていたことになるよりはどれだけましなことだろうか。苦しまなければこの世は面白くない。そのように考えたのもごく最近である。幼少気にはまず思いもよらなかった。
さて、細部と全体の例に戻る。めくるめく幻想の世界に夢は私を誘うが、しかし現実に引き戻された時それをすぐさま書きつけることはできない。それは印象が強烈だった部分にディテールを引っ張られ、他の部分がまた意識の底に沈潜してしまうからである。全体像を捉えるために、すべての部分に一定の目を置けるようにしなければ、夢の全体を描くことはできない。それはやっとこの段階で物語としての体をなすのだが、しかしここには何らかの特徴がある、とも考えられる。もっと正確に言えば、自身のパーソナリティ傾向、思考傾向が映し出されていると考えていいだろう。私自身に細部から全体へ、という志向があるのは前々から感じてはいるが、これは細部の魅力を失ってはいないだろうか。より主観に忠実な表現を求めるのならば、ホムンクルスのようにデフォルメされた全体像を描いてもよいはずである。主観的体験を知るためには、またリアリティを表現するにはその方が良いだろう。しかしすべてを均一化することは、それを捨てて主観的体験に重要な位置づけをもつ印象までも矮小化してしまってはいないだろうか。
だが、「忠実にデフォルメする」とは至難の業である。矛盾すら孕んでいるかもしれない。強く印象に残った部分はもちろん微に入り細を穿ち、圧倒的な迫力を持って表されるかもしれない。その一方で忘れられた部分は、強烈な印象に引きずられ、ちょっとした小賢しい手心、意識の産み出す浅はかな表現によって彩られるに過ぎない。そんなものを事後に読んだ時どれほどくだらない印象を受けることか。その上でバランスをとる、ということが必要なのではないだろうか。要は、細部と全体に対して反復して注意の眼を注ぐことだと私は考える。その反復は二元論を超え、複雑な建築物を生み出す。どこからスタートしてもよい。ただ、絶えず次の段階に目を向け続けること、そしてそのための労を厭わないことである。苦しみさえも甘露である。

*4:ちなみに*2、*3は本文とは全く関係がない。