Dialogの不可能性について

dialogとはなにか。そもそも完全な他者理解などありえない。他者の存在と差異を相互に認識し、共有を図ることがdialogならば、それはあまりにも無力であるか、遂行可能な者は絶望的に少ないかのいずれかである。われわれは自らの世界の内でしか他者を想定することが出来ない。われわれは等質な能力を持っていない。しかも、感情的な関わりが強まるほど対話は困難にもなりうる。


相手が「なぜあなたはそうしないのか」と私をなじったとき、私はいくつかの答えを想定した。事実相手の望むことを行うのを「怠っていた」私の責任である or 相手の望みはそもそも合意されていない or 相手は過分に私に要求している or 相手は私に望んでいながらも私の行為を初めから評価などしていない――私を、いや基本的に人を信用していない など。もし私の怠慢であるとき、私は相手の望みを意図的に聞いていなかったか、意図せずして聞いていなかったかで事情は異なってくる。意図的に聞いていなかったのであれば、私の事情をもう一度掘り起こす必要がある。相手との合意があったのか、または、はなから聞く気がなかったのか――なぜ聞く気がなかったのかも取り上げる必要がある。意図せず聞いていなかった場合、私にとって事態が深刻なものとして捉える必要がある。いやそもそも、意図するしないという区別は責任の所在を一般的な方法に近づけて明らかにする方法であり、それ意外の可能性を考慮することから排除してしまう。意図しようが意図しまいが、私が相手の意図を、欲求を、期待を「受け取れていなかった」ということ自体に私の「欠格者」たる側面が現れていることを、取り上げることが難しい。しかしここでは、「欠格者」という呼び名が私を規定し免罪しかねない。より問題志向的にするためには、「なぜ私は『そうできなかったのか』」という問いを立てねばなるまい。そこから汲み出されるであろう各種の観点は、問いを簡単に収束させるようなものではない。なぜなら、この問いは自らに向けられているからである。「できない」ことの背景・源泉は、むろん「できる」ことと同様、「私」が十分に把握できることではない。自らが今まで知りえなかったことを敢えて問いに乗せるというのは、隘路へ向かって突き進む所業とあまり変わりがない。このとき、私は答えを私のみに求めることをやめ、他へと開いてゆかねばならない。関係のとり方のまずさ、私と相手との認識のずれ、相手の思っていたこと、相手の欲望など、これらが絡み合うほどに事態は困難になり、答えはさらに捉え様がない場所へと遠ざかってしまう。私は、「私」も「あなた」も十分に知ることが出来ない。しかし、様々な問いをたて、自らの今取っている行為も考慮に入れながら向かい続けねばならない。場当たり的な答えを出すこともあろう。しかし、これはそんなわれわれをいとも簡単に足蹴にし、恐らくいつになっても解かれる気配を見せず、不気味な様相を変わらず現し続けながら、「私」と「あなた」の間に横たわっている。この第三者ですらない、第2.5者…または第1.5者――間主観的な気味の悪い存在者的空間。


対話は不可能である。私は差し出せるならば全て差し出す。しかし「あなた」は、そうではない、と言う。