拠って立たれる物

思念を具体に落とすこと。まるで出来事を起こすことにとらわれ、そのわざとらしさに気付かず、あるいは刺激を追うことに腐心するのでは、必然性が成立しない。では、必然的「ではない」とは何か。表層の根拠にとどまり、それ自体が代替可能なものであることか。いかに周辺の出来事とつながりがあるとはいえ、別の“水準”では簡単に根拠を失ってしまうこと。とすれば、「より」必然的である、という表現しかありえない。絶対的な基準として必然性がそびえていることはありえない。何について必然的であるか、という言い方もまた可能だろう。相対比較であれば、多様な観点からの測尺の可能性も開ける。
必然である、とは、たとえば人物の現れと同時に出来事の出来する可能性も現れるという言い方でも表しうるか。
環境に対して根深く存在している出来事や人物を必然的であるとも言うが、しかしこれでは環境という地に対して、出来事や人物を対象化して捉えることになる。それではいけない。根深く存在していることは必須であるが、その深きに至るに従い、根と地の見分けが困難となることも必要であろう。このことはまた、読み手の捉え方とも大きくかかわるだろう。ある者にとって必然性がないと感じられる出来事が、別の者の努力した深みへの読みによって必然を看取されることもまたある。誰にとっても一様に深みを感じさせることが可能であればその方がよいだろう。より明示的に不分明さを提示するという矛盾した企てもまた必要かもしれない。