隔てと「正義」

バスケットボールでパナソニックが優勝したことを受けて、個人的な追想
美しき者たちよ――私があなたたちをそう呼ぶのを許してほしい。よからぬ思いで呼んでいるのではなく、そう呼ぶ以外に言葉が見つからないのだ――。
美しき者たちよ、その輝ける若さと身体の躍動のもと、一丸となって目標に向かって努力を重ね、道を切り開いていったのだろう。途中で挫折もあっただろうが、共に励ましあいながら、時には衝突しながらも、周りの友と絶えぬ試行錯誤と努力を重ね、克服していったのだろう。涙と喜び、これらはひとつとなり、長い間あなたたちの記憶に輝かしい青春の一ページとして刻まれることだろう。
美しき者たち、それは強き者たちの二つ名である。強き者であるには資質が要る。資質なき者は疎外される――それがいかなる理由であれ、結果的に資質を開花させ、強き者の仲間入りをしたと思えば、彼は強き者で「ある」。
弱き者には声がない。強き者になるまで、彼らは声を持たない。強き者と弱き者、この二者には決定的なほどに埋めがたい隔たりがある。そもそも、住む場所が違う。お互いは同じ存在と思われることもなく、交わることなく、確執と溝が深まることこそあれ、埋まることはない。お互いがお互いを別種の人間だと思っている限り。
二者は厳然として「違う」のだ。これは比喩的に言われる壁でもなく、差別という意図的に設けられた概念でもない。むしろ「区別」という語に近い。初めから隔てられていたのだ。すなわち、彼らは分けたくて分けているのではない。初めから分けられていたのだ。この隔たりはついに埋まることがない。
美しき者たちよ、あなたがたは脇目も振らず自らの輝かしい道を突き進む。同じ夢を持った友とは信頼と友情で結ばれる。ほかの可能性などない。もしあなた方を腐す者が現れれば、奴等は敵だと思えばいい。自分たちの道を塞ぐ、不逞の輩共。いずれ奴等はあなた方の強さに屈するだろう。そして、あなた方と同じ夢を抱き、共に歩み始めるだろう。もし彼らが道に迷うことがあれば、ためらわず教え導いてやればいい。誤った道に進むことがあれば、教え諭し、時には拳を振り上げてでも止めなくてはならない。
もしそれでも、弱き者たちが自分と行動を共にしようとしなければ、その時は彼らを排除するしかあるまい。彼らは弱き者でい続けることを選択したのだ。強くなるための努力をしない、馬鹿な奴等。そんな者は不要である。すぐさま輪から外れて行くがいい。もし反旗を揚げる者がいれば、息の根を止めるために全力をあげよう。こちらは譲歩してやったのだ。せっかくこちらが手を差し延べてやったのにもかかわらず、彼らはその手を払いのけた。彼らも譲歩すべきところなのに、彼らは何もしなかった。では、正義を振るうしかあるまい。自らの信じる正義を。
美しき者は自らを信じて疑わない。たとえ迷ったとしても、その道は必ず夢へとつながってゆく。ほかの可能性などあるはずがない。自らの進む道こそが、たった一つの夢であり、正義なのだから。