君の所へ

今日、君の所に行く。
「行くんだ」と気持ちを滲ませてもいいが、そうすると私の言葉はそこに高濃度で凝縮されて、何倍もの表現を肩代わりしてしまう。言いたかったこと、言えなかったこと、それが「行くんだ」に込められる、つもりになってしまう。
君と呼ぶ相手に人としての形はなく、ただ私がそう呼んでいるだけのことだ。遠まわしに表現し、言いたいことを精密画のように一つ一つ丁寧に描写しようとして、今日私が向かう場所を「君」と呼ぶ。大したことではない。
「君」は私に期待していない。「君」は人ではない。ただ、私の訪れがそういう現象として起きるだけのことだ。想われないことを悪く思う私ではない。私が人格者だから、というわけではなく、何年も昔にまた来るよと声をかけて立ち去った古里の神社のようなものだからだ。自分勝手な話だ。自分が思い、自分が宣言し、自分が行動し、そして自分が自分のことを懐かしむのだ。たったそれだけの狭い世界を、繰り返し表現しようとする。自己愛者である。
私はいま、感興を垂れ流しているにすぎない。いずれくる時間に永遠の隔たりを思わせ、その距たりになけなしのロマンティシズムを流し込んでいる。得てして、ロマンティシズムとはそういうものかもしれない。ありもしない空間を思い描き、無限の空間に人間の有限性を比較して嘆くというものだろう。もう、人は何度も繰り返してきたはずだ。それでも懲りずに、誰かが同じようなことを行う。
みうらじゅんが「男はずっと童貞の心を持ち続けている」と言ったとか、「相手に想われるよりも、片思いの方がいい」という言い方があったと聞く。叶わないからこそ、そこに辿りつこうとして様々な工夫が凝らされ、豊かな表現が生み出される。
ただここには、進めるはずの足をいつまでたっても動かさず、向かう先を強く慕っている者がいるだけだ。こいつは、動かずして世界を語ろうとしている大法螺吹きの馬鹿野郎かもしれない。