「倫理」というペテン

「倫理」のあたりから始めてみよう。

倫理や道徳、18歳まで学校で何度も授業に取り上げられる科目、話題のひとつだ。詰まらなかったという思い出ばかり聞く。「人間として」こうしないといけない、こんなことをしてはいけない、実際にそれが有用になることなど、ほとんどないのに、だ。
しかし、年を重ねると、今度は「誰誰がこう言ったから正しい」という物言いが多くなるように思う。あれほど道徳の授業が面白くないと言っていたのに、だ。自分が信用できる相手の言うことならば、正しいと思える人々は多いらしい。
この二つを代表に挙げてみたが、それぞれは異なってもいるし、同じでもある。たとえば前者は、あまりにも決まり切っていて、一般的に正しいと思われるようなことを極めて単純に見せている。ときにはそれを強化するように、「あなたがそう言われたらどう思いますか?」のように問いかけてくることもある。自分のことならば想像できるだろうというのだ。後者であれば、より事情は単純になってくる。その人は正しいのだから、その人の言うことは正しい、と。私が信じているのは、その人が正しいからだ。その人を信じているのだから、その人の言うことは正しい、と。簡単な三段論法が成り立つ。信じている理由をどれほど根拠だてて述べようとも、結局はその人を信じているというところに行き着いてしまえば、同じだ。「信じている」ということが、他のあらゆる疑いさえもチャラにしてしまう。
論理的な思考とやらが幅を利かそうとも、やっていることは同じだ。論証という方法を取っている限り、結局は「正しい」ということを証明するために千万言を費やしているだけで、「正しい」と思っていることそのものを疑うことがなければ、まるで自己正当化を行っているようなものでしかない。


倫理や道徳とは、結局、「これを守れば自分は正しいことが保証される」と思わせるようにしているだけだ。自分が、常に、間違っている、正しくないと思わせるのではなく、「より正しい人の姿」を宣伝しているに過ぎない。
このうさんくささに気がつけば、反発する人も少なからず出てくる。しかし、そう思っている人ですら、自分が「信じられる」相手が出てくれば、いとも簡単に「正しい」ことにすがりついてしまう。この人の言うことなら正しいんだ、と。いい大人だろうが、暴走族のニーチャンだろうが、どんなに正しいこと、いわゆる「体制」に反発したところで、自分の居場所を見つけてしまえば、その「正しいこと」「正義」「主義」「ポリシー」を信じ、頑なに守り、時には押しつけてくる。振りかざしてくる。


自分を疑うというのは、そんなに難しいことなのか。なぜ、自分で考えようとしないのか。


あるとき、知人Aが、男女入り乱れて夜の小学校に忍び込み、プールで裸になって泳いだという。それを聞いた別の知人Bは、「それは倫理的にどうかと思う」「常識を疑う」と言って怒りだしたのだそうだ。
私はこの話を聞いて、なんとも言えない強い違和感を抱いた。Bの言う倫理・常識ってのはどこからくるものなのか?誰がそれを「倫理的にダメだ」と言ったのか?そもそも、その人は倫理や常識とはいったいどんなものだと思っているのか?仮にそれが倫理や常識であったとして、Bはいったい何様なのか?倫理の番人か?常識の守護者なのか?個人が倫理を語るということがこんなにも「うさんくさい」ものなのかと痛感した出来事だった。
多くの場で、倫理や常識がよく謳われる。とりあえず、「人として」と付けておけば、そう言われた人を「自分は間違ったことをしているんじゃないか」と思わせることに成功しやすい。しかし、ではその倫理や常識とやらについて、Bが一貫した態度を取り続けているかというとそうでもなかろう。少なくとも私はBの振る舞いをそこまで一貫したもの、倫理的態度に基づくものだと思ったことは無い。いや、どんな者であろうと、だ。倫理や常識など、個人が個人をなじるために振りかざしていいものなんかではない。個人が倫理を語るな。個人は個人的立場でしかものを言うことはできない。自分の口から言葉が発せられている限り、それはどこまでいこうと個人的なものでしかない。


同じように、「相手のことが分かる」というのも、極めて注意しなければいけない言葉である。端的に言えば、相手のことなんか分からん。それを分かるというのであれば、そいつはとんだペテン野郎でしかない。相手を理解しようとしたら分かるようになるってか。個人は個人的な立場を抜けることが出来ない。どれほど努力をしたとしても。
直観や経験則で、これは補われると言う人もいるだろうが、結局、そうだとしても、それは個人的な体験でしかないのだ。


自分と相手が違う、ということ。
正しいということが、そもそも在り得ない、ということ。
このことは何度も考える必要がある。