内省の方法

森見登美彦の『恋文の技術』を読んでいるため、テンションがおかしくなっている。が少しここはこらえて、内省的なことばかり書き続けることにしよう。


内省とは、「自分自身の心のはたらきや状態をかえりみること」と定義される。
朝の作業として、思考に侵入してくる理性外のこと、ともいえるものを相手にする。それが何か、を問うのではない。対象として捉えるのではなく、観察自我的な視点を導入することなく体験する。つい頭で考えることを習慣にしていると、自分がどのような体験をしているのか、それ自体を対象化してしまう。そうではなく、「自分という場・舞台しかない」という状況に自らを置くようにしている。理解するのではなく、体験する。そういってしまえば簡単だが、理解しようとするのは、覚醒した状態でのサガともいえる。これは何々である・何々ではないか、そういうふうに理解の手掛かりを求めようとする。しかも、「これはいわゆる○○だ」と自分の知識で名づけようとする。これをやると、先行きが無くなってしまう。体験するのではなく、理解するという極めて意識的な作業に陥ってしまう。自由連想ともいえるような作業を指していると考えてもらえればよいか。もっとも、「いまから自由連想を行う」などと“考えて”行ってはならない。それはやはり、意識的作業でしかないからだ。私がここで言う、自由連想とやらはシリトリのようなものではない。考えるのではなく、考えさせられるのだ。
覚醒していると、つまらないことしか考えない。自分が「知っている」と知っている、思い込んでいるようなことしか思いつかない。たとえば覚醒状態において自由連想的な作業をやったとする。それは、大体自分が了解していることでしかつながってゆかない。私が求めているのは、ハッとさせられるような感覚だ。驚きというものでもない。まるで考えさせられているような、もっと根深く陰湿なもの。覚醒状態ではない、半覚醒状態、寝起きでは、思いもよらぬことが感覚に甦ってくる。夢のかけらであったり、昨日の体験を蒸し返すような思い出しだったり。自分の中に刻まれてしまっている、体験的なことを、なかば強制的に感覚によみがえらせる。「これはこうだ」という頭で分かっていることではなく、「もしかしたら、あれはああなのかもしれない」という強迫じみた感覚。
以上に書いていることは、病的な体験とも言えるのかもしれない。しかし、それだけでとどまってもならない。それを感じている自分がどうして突き動かされているのか、よりさらにさかのぼっていくことが重要である。理由を概念化させるために求めていくのではない。そうではなく、いわばそれは、感覚していることの感覚を求めていくようなもの。かすかな光を求めて、徐々に深みへ下っていくこと。下っていくほど、その体験は体験として言葉にしようがなくなっていく。言い表せる言葉など、無いのだ。むろん、名づけるのを目的にするのではないのだけど、どうしても自分の理解の範疇を越えてしまうと、不安になって、もっとも理解しやすい「言葉」へと還元させようとしてしまうのだ。理解できず、しかし体験させ続けること。それを毎朝、行っている。

個人的には、この一連の作業がないと、朝から抜けまくりになってしまう。注意力のない、散漫なままで一日を送ることになってしまう。自分が考えていることと人の言っていることの区別も付かず、誰が何を言おうとしているのかもろくに分からないような腑抜けの状態が続いてしまう。注意力を研ぎ澄ますために、この作業は役立っているのかもしれない。
いずれにせよ、なんだか自分にとってはそうすることがのっぴきならない重要性をもっていそうである。だから、そうする。