トリガー、書く動機

いつも、記事を書きこむ段階になって初めに思い浮かぶ言葉は、このところ決まっている。「分からないことがある」。
今回はこれをなるべく無視して、述べていこう。
書く、ということには何かしらの「引き金」が必要なのだ。以下は相も変わらず認知心理学まがいの自己分析的手法を気取った能書き、御託にしか過ぎないのだが、言葉を発するということに私は長いことこだわっていた。誰に言うわけでもないが。書くこと。これは私にとって最も意義を持つものの一つである。しかし、書けないこともままある。いつものように(いつものようにというのが何とも惰性で気色悪いんだけれど)、記事を書く画面に向かう。しかし書きたいことが特にある訳でもない。自らがこの惰性的な態度で向かったことに自己嫌悪を覚えて、その自己嫌悪を内省的に綴ることが多い。こうやって私によって吐き出し、貼り付けられた文字たちはここに放っておかれている。そういった事態も「書く」ということの一つの様態であるならば、何かしらの動機、ともいえるものが私に文字を書かせていると考えた方がいいのかもしれないと思う。動機と呼ぶにはどんなに微妙なものだったとしても。
書くこと。それ自体が、忘れないための対策だった。長続きしない私の思考の中で、ときどきめっけもののように閃くことがあり(それはしばしば凡庸に過ぎないもので)、これを使って何とか先へ進めないか、いや、私がここで閃いた『発見』を価値あるものとして残しておくことはできないか、とよく思うのだ。そして、手元の紙きれやPCに向かって益体もないことを書きちらす。習慣にさえなっている。驚くべきこと(惰性)だ。
書くこと。言うこと。これらは時に、同列に扱われる。より精錬された言葉を、と以前の記事でも書いたように、そのためには「内圧」を高めることが必要だと。これら、引き金、動機、対策、内圧、様々な形で言葉を発することを望む欲望がある。枯れる、ということがどれほど私にとって脅威であることか。考えることがなくなり、“植物状態”“動物状態”で日々を過ごすということの圧倒的な空無感。
翻って、私には「内圧」、ストレスが必要で、愛しているとさえ言い出すのはまた別の話だ。