焦慮
どうしよう、と自らに問おう。今までやってきたことを一時に反故にする気があれば、すぐさまにでも投げ捨ててしまうべきだと思っている。よく聞け。私。今一度立ち止まり、何をやってきたかを再び問え。これまで行ってきた行動が無自覚的なものであるならば、すぐにでも取り返すように押っ取り刀で駆け付けねばならない。自らが問わずして等閑にしたものは後で必ず到来する。襲来する。今まで何をしてきたのか。たといこれまでの言動が評価すべきところを持っていたとしても、さてそのような過去のものにすがるほどお前はヒマなのか?この胸のむかつきと空虚感が同時に存在する違和感そのものは、見過ごしにすることがあってはならない。自らのわかる言葉で、自らに対して差し込みを掛けるべきである。人が読むとは、それはサービスとかいうものの結果あるいは目的であるにすぎない。自らの持つビハインドをきちんと読み込むために苦しまねばならない。
「ねばならぬ」――この言葉にどれほど取りつかれていることか。義務などないのに。ただただ、底に落ち込んでいく自らの姿を望み、私は息を詰めて最悪の状況を演じているに過ぎない。自らで考えられうる「最悪の状況」を……これも良く分からないことだ。私はこうやって、ただ意味の分からぬ言葉を書き散らして、最悪の、望ましき地獄へ向かうことをひたすらに避けているのではないか?………その通りだ。最も、自らが望まぬ場所へ向かえ。引き摺る足、それ自体を引き摺り、「動機が見つからない」だの訳の分からぬことをいうその横面を張り倒し、向かわせねば話にならない。自分が偉いとでも思っているのか?何かに価値する存在だとでも?笑わせるな。ここにいるだけでも不十分、無益なのだ*1。欠格者、追認者、門外漢、無能、逃亡者、傍観者、どのような名称でもいい。いや、この「者」という存在定置を約束するような語さえも剥ぎ取ってしまえ。何者でもない、何でもない。ここにはいない。ええからはよせえ。