溶融、繋累

朝からたっぷりと時間があったのをいいことに、集中していたのだ。感覚を、意識に上そうとしていた。それは、言葉にならない感覚を言葉にする作業でもある。あるいは敷居を取り払うことでもある。かつて私は直観した。「すべてつながっている」と。それを十分に説明できないまま、人間は今にいたるのだ、と。私も十分に説明できない。しかし、私が常に気にかけているのは、思わぬところで行動が、感情の予期せぬ阻みに遭って行き詰まってしまうことだ。自分のことなのになぜ自分が分かっていないのか?「嫌なものは嫌だ」などと、口が裂けても言いたくない。自分に振り回されているようなものだ。私は私の感情で動くことを良しとはしない。時間的人間的空間的環境と私のどうしようもない感情を全て並列に置き、限りなく意識的に選択し、構築し、行動するように心がけている。ゆえに、「嫌なことは嫌と言えばいい」というアドバイスすらも私には意味をもたない。現実的な判断のもと、困難だと判断したときにしか、私はやめまい。ともかく。
これらの思考作業を約2時間にわたって続けていた。6時半から8時半まで。しかし、得難いものはどれほど時間をかけても得難いことに変わりない。ただ、自覚した言葉をのみ口にせねばならないと、ひたすら、何事を感じているのか、意識に、言葉に乗せようとしていた。神経がちぎれるほどにストレスがかかる。夜、こんなに疲れ果てるとは思いもよらなかった…これは博打だ。気が触れるか、自殺するか、頓挫して凡庸を選ぶか、何事かを成し遂げるか、体を壊すか。ただ、自他からの謗りと憾みを残さぬよう、徹底的に行うこと。異常なまでに徹底的に、しかし真面目で誠実な顔をして行い続けること。私が壊れるか、世界が壊れるか…(何という愚劣か)